競艇沿革史


座談会
「競艇の高天ヶ原! 創始時代を語る」

日時 昭和44年3月17日
場所 東京・日本都市センター

出席者 (敬称略)
東京都モーターボート競走会長 藤 吉男

元全国モーターボート競走会連合会総務部長
前埼玉県モーターボート競走会常務理事   平野 晃

日本モーターボート協会専務理事 原田綱嘉

全国モーターボート競走施行者協議会専務理事 高橋百千

競艇沿革史編さん主務者
埼玉県都市競艇組合助役 司会 塩原圭次郎


 司会挨拶 本日はお忙しいところをご出席下さいまして誠にありがとうございます。
 ご承知の通り、競艇十五周年記念事業として、競艇沿革史を発刊いたすことになり、目下編さん中でありますが、これについてモーターボートがギャンブルとして発足し、実際に施行された当時のこと、たとえて申せば競艇の高天ヶ原時代、次いで神武天皇即位のころ――その当時実際にご関係なされたお三人にお集まりを願い、当時のご苦心、ご苦労のほか、でき得れば裏話なども承り、これを記録に残したいと存じますので、よろしくお願いいたします。
 
モーターボート競走の発想

 司会 はじめに、津競艇沿革史(増田正吾氏編)を拝見したんですが、福島世根さん(某高僧の愛人だったといわれた人)という人が初めに出ておりますので、この人はどういう人かと思っていまして――この間、笹川先生にお会いしたとき伺ったところ
「モーターボートをギャンブルにしたいというアイデアは私が獄中にあったとき、たまたま、英国のライフ誌を読んでいるうち、英国では自転車がギャンブルとして開催されていることにヒントを得て、海国日本はモーターボートをギャンブルとして市町村の財政に寄与したらと考え、出獄早々この構想を発表したが、自分では運動できないので福島世根(当時六十二才・故人)や矢次一夫氏に依頼して運動を開始した」
とのことでしたが、その後どういう経過をたどったのでしょうか?
  それは、平野君がいいでしょう。
 平野 藤会長は、古くから笹川先生とご一緒で、よくご存じだと思うんですが、私の知っているのは極く一部分だと思いますが、立法化することについて笹川先生と矢次先生が話し合われ、その第一歩として大野伴睦氏をたずねて舟艇協会を紹介されたと記憶しております。――確かなことは笹川先生にお聞きしなければわかりませんが――私たちは、モーターボートのアマチュア団体として、舟艇協会があることさえ知らなかったんです。
  私は、大体ギャンブルぎらいで・・・全然、関係していませんでした。笹川先生が巣鴨から帰って事務所を開かれたころ、時々、福島さんが出入りしていたようです。これはモーターボートの話が出る前ですが――福島さんが韓国人に脅迫された事件があって、笹川先生から「藤君!ひとつ力になってやれ」といわれたんですが――その問題には介入しませんでした。
 笹川先生は、国粋大衆党時代から「四面海の日本は海外に進出しなければならん。海国日本らしいやり方をやらなきゃならん」と主張されており、巣鴨で更にこの信念を強められたようです。
 ここでお話ししたいことは、安岡正篤、笹川良一、矢次一夫、この三人は実の兄弟といってもいいほどの親交があり、たまたま、モーターボートの話が出て「社会復興の企業としてやって行こう」ということで、盛り上がったんだと思います。そして、そのころ大野氏の所へ出入りしていた福島さんが“使い役”をされたそんなことだと思います。笹川先生は、物心両面で、ずいぶんご苦労されていたご様子で・・・。発端は、ひょっとしたはずみじゃないでしょうか?
 平野 いまのお話で思い出したんですが、安岡、矢次両先生のパージ解除のお祝いは、ご一緒でしたが、なかなか盛大でした。
  平野君は矢次さんの秘書兼総務部長のような役割りをやっていられたわけですが――原田君との関係は?
 平野 先きにお話ししたように、モーターボートの専門家である日本舟艇協会に母体になってもらって、法律を作るにしても、ギャンブルとして取り上げるにしても、対象になるかどうか――いろいろとコーチしてもらうため、適当な人を派遣してほしいとお願いしたわけです。それで、まっ先きに原田君が推せんされて――。
  土肥君は、あとでしたか?
 平野 エンジニアとして原田君一人でした。舟艇協会は原田君を派遣してくれたほか技術的なことで全面的に応援してくれました。その後、私や原田君に相談があって、企画性もあり筆も立つというので土肥君が企画部長として入られたんです。それから両君の関係で、道明君、道明君の関係で菊池君。道明君は後の技術部長です。
 司会 福島世根さんが銀座の事務所へ出入りされたのは、いつごろからですか?
 平野 あれは二十五年の夏ごろでしたか?
  二十三、四年ごろから、あの人は来ていたようです。矢次さんもそうです。
 平野 何やかやで、私がおたずねした人で覚えているのは、中島久万吉さん、郷古潔さん――。
  それから美濃部洋二さん、倉茂貞助さん――。
 平野 美濃部洋二さんは競輪の理事をやっていられて、連合会の設立準備委員会で作った運営委員会の初代の委員にもなられました。競輪のことをお聞きするため、神谷町のお宅へ何べんもお伺いしました。倉茂さんもいろいろ知恵を貸して下さった。
  美濃部さんは、矢次さんの紹介でしょう。
 平野 そうです。
 司会 (津市競艇史を開いて)これを見ますと、銀座派と歌舞伎派があって、銀座派の方は足立正、中島久万吉。歌舞伎派といわれる方には前田一派とありますが――。
  当時、大野氏のお弟子さんの前田郁氏が衆議院の運輸委員長をしており、参議院の運輸委員長は植竹春彦氏、後で私のところの名誉会長になった中島守利氏、これらの人たちが議員会館で会合しておったが、大野氏の紹介で前田委員長と知り合った福島世根氏が、いわゆる銀座派の情報を持ってこれに合流、この方の連合会設立準備会事務所を歌舞伎座の中に設けたので、これを歌舞伎派と称するようになったのが本筋だと思うんですが。
 平野 そもそもモーターボートの発想は福島世根さんから始まって、民間の笹川、矢次両先生から出た話が議会にかかった。その前後、運輸委員長前田郁さんがこれをキャッチして、そこから二派に別れる発端が始まった。そういうふうに記憶しておりますが――。
  私もそうだと思います。
 平野 国会にかけるまでには、いろいろと紆余曲折がありましたが、津の競艇史にも書かれているように各党の共同提案で行こうということで、自由党は神田博さん、民主党は有田喜一さん、社会党は土井直作さん、この三党三人の方が三党の総務会をまとめるために努力されました。六十何名の議員提出ということになったんですが、そこまで漕ぎつけるには大変な苦労があったんです。
 有名な、藤さんの「広川弘禅宅夜襲事件」は、この期間中の出来ごとです。当時の自由党は吉田総裁の時代で、吉田さんは大のギャンブルぎらい。同じころ農林委員会の方にはドッグレースもかかっており、自由党からは提案しにくいという事情もあったわけです。そのころ広川さんは自由党の総務会長でした。とにかく三党で話がまとまり、法案が議員提出立法として、運輸委員会にかかったころ、前田委員長が、自分の関係範囲で中央の連合会を作ろうという強い気持ちを持ったのではないかと思うんです。

競走法の誕生前後 関係者の熱意で難関突破

 司会 津ではこう書いているんです。“広川氏は考慮を約したものの、いまドッグレース法案が提出され、難航が予想されているのに、更に、ボート法案を出すと共倒れになるおそれがあるから一年待ったらどうか、とのことであったが、藤氏は不退転の決意で、遂に広川氏を動かすことに成功した。後日、平井義一氏は、藤氏に「君は、広川を脅迫したというではないか」と、藤氏の強硬な決意のほどが偲ばれる”と。
  それは誕生まぎわのことで――それまでに笹川、矢次、それから平野、これらの諸氏が非常に苦労されて、衆議院に日参していました。私の同僚、板倉弥三郎も盛んに議会まわりをやっていました。
 衆議院は楽に通って参議院へまわり、参議院の運輸委員会を一票の差でようやく通ったんですが――本会議にかかって何票の差だったかな?
 平野 よほどの差でしたねえ。
 原田 話になりませんでした。
  船が水に浮かぶというときに、参議院でバチンとぶち当てられて、陸へ上がってしまった。あのときは右往左往の形でした。そこで板倉が“広川総務会長は藤と懇意らしい”ということで、ちょうど上京していた吉松を連れて私の自宅へやって来たんです。それまでに、皆さんの動きはおぼろげながら知っていましたが、小さな使い走りもしていませんし、全然、わからなかったんですが、否決されてから相談に来たわけです。
 先きほどもお話ししたように、ギャンブルは好きじゃあないんで「まあ―俺は勘弁してくれ」といいながら、ちょうど一ぱいやっていましたから「まあ!酒でも飲めよ、船が陸へ上がっちゃあ動きがとれんじゃないか」と話したら、笹川先生が「藤に頼んで来い」といわれたというんです。“おやじがいうんでは、何をおいても動かなきゃならん”と思い、おやじの意見を聞こうと桜ヶ丘の屋敷に行って「板倉と吉松が動いてくれというんですが・・・」と話しました。
 先生は「そのとおりだが、この問題は矢次君が現役でやっているから、矢次君の意見によって行動したらよかろう」といわれたので、矢次さんをたずねました。ちょうど夜中の十二時ごろだったでしょう、寝ていた矢次さんに起きてもらって、意見を聞いたんです。
 矢次さんは「藤君!ありがたい話だ、もし船が水の上に浮かんだら、すべて君の功績だ。ひとつ万難を排してやってくれい」といわれました。
 それから私は吉松と板倉と、いまは故人ですが、晩年、埼玉県競走会で非常に厄介になった吉田芳太郎の三人を連れて、三宿の広川邸へ向かいました。午前一時ごろだったでしょう、三宿へ着いたのは二時近くでした。
 広川の母堂は、なかなかしっかりした人で「どういうえらい方がおいでになっても、せがれは三時までは休ませることになっているから、出なおしてほしい。天皇陛下のお言葉であれば別ですが・・・総理大臣でも夜中は困る」と断わられた。
 こちらは“そうですか”と帰るわけにいかんので、三宿の電車通りにあった安宿を起こして、いっとき休憩させてほしいと、ひや酒を一本持って来させ、それをあおっていたんです。
 そのときの私のいでたちは、カスリの着物に袴(はかま)をはいて素足だった。羽織も着ていないんだが、あれは――何月だったか、とにかくそれでも歩ける気候だったんです。広川は平気でウソをいうので、気にかかったから三時になると、吉田を行かせたんです。そしたら“五時に会おう”という返事。広川は曲者だから取逃がしては・・・というんで、四時少し過ぎに宿を出て、三宿のあの坂にすわっとった。片方が川で片方に人家があるので、自動車一台がやっと通れるような狭い道です。
 まっ正面からライトを光らせて自動車が来る。“あっ!広川は逃げるぞ”と思った。当時、彼は吉田茂首相と非常にじっこんで、毎朝、首相を訪問して意見を聞き、それを施策に移して行くというようにやっていた。“また、すっぽかそうとする”と、立ちはだかって自動車を止めちゃったんだ。そしたら「藤君じゃないか、藤、藤、藤・・・ちょっと入り給え」というんです。車の中へ――。そして運転手を降ろして――ああいうところが、広川のえらいとこです。
 車の中に私と主の対ですよ、何で来たんだといわれたがどうしてもボートのことを頼みに来たと切り出せない。(笑声)そのころ、笹川先生はじめ多くの方々が追放されていましたかち、これを取りあげて、追放問題を政府や政党はどのように考えているんだ、と詰めよったんです。広川は「もうちょっと待て、必ず全部追放解除になって、自由に政治活動もできる明るい日が来るんだ、もうちょっと待て」といったんです。それはわかったが、俺は俺のおやじに頼まれて、どうしても聞いてもらわなければならない問題があるんだ。というと「そりゃあ何じゃ」といわれた。そこで“モーターボート競走法案が参議院で否決されたそうだ。俺は関係ないが、笹川、矢次両氏をはじめ、関係の諸氏が非常に苦労しているんだから、何とかひとつ、君、骨を折ってもらいたい”といった。
 当時は、参議院で否決された場合は衆議院に差し戻されて、それで大体廃案になるのが多いんだそうです。廃案にされては困るというんで、私を動かしたのだと思うんですが――広川は「ちょっと待て」といちんですよ。さっきいわれたドッグレースは、農林大臣がもたついていて、とてもだめなんだ。こいつはつぶしてしまうが、モーターボートは、あと一年待て、と。いや、待っとられん。というわけで――頼まれたら最後、やっぱりものはまとめにゃあならん。ハイアライも一党ができていて、三つになっていたんです。
 「二つはつぶして、君の顔を立てて来年は必らず総務会をまとめて、もう一ぺんやるから待ってくれ」「いや待てん、俺のところはそれだけ困っておるのだ」と押し返した。
 後に国務大臣になった本田一郎――この人は市会議員のとき私と一緒だった。――それから運輸大臣をやった小沢佐重喜、これも総務会。平井義一、鳩山さんもそうだったな、そうそう池田正之輔、参議院から本田一郎と小沢佐重喜が物すごく反対しておるのだ。君は平井くんを知っておるだろう。――平井君は議会当時、議長の秘書をしていたからよく知っている。――あれをひとつくどいてもらえんか――何とかまとめて本田一郎と小沢佐重喜を屈服させたら総務会にかけてやってくれるか――
 「よし、それじゃあ、これから平井の所へ行って話をつけて来る。平井から発言させたら、君必ず取上げてくれ」と確約して、その足で平河町の平井宅へ行った。そこで、私は「実はこういうわけで、どうしても広川に総務会をまとめてもらわなくてはいけないんだが、広川に『小沢佐重喜と本田が非常に反対しているから、これを説得するには平井がいいから、君、平井にそれを頼んで来い』といわれて来たんだ。総務の委員から発言するようにしてくれ」と話した。平井は「よくわかった、とにかくお前は一ぺん帰れ」といってくれた。――こっちは目がすわってるんだ(笑声)それで帰ったんですが電話がかかって来て、「おい藤君!君は広川を脅迫したのか?おどかされたといってるぞ、総理の所へ行く前におどかされて、自動車の中でのっぴきならんようになったから君の所へ回したんだ」と、そこに君と板倉もいたかな?――とにかく一年待った方がよいというんだ。――ドッグと一緒で前田が関係しておるんじゃないか、あいつは非常にひどい奴だから――というわけで。
 平野 いまのようなイキサツがあって、法案が衆議院から参議院へ回ったところ、参議院の社会党左派が動いて、「ギャンブル反対」を党議で決めたんです。土井直作さんが法案提出の議員に名を連ねているんですが――左派に押されたんでしょうね。そして運輸委員会では極端な引き延ばし作戦をやって――。
  (原田氏に)あの時は、もうあなたはいたでしょう?
 原田 もう少し前からですよ――別に堤徳三。
  徳三さん。
 原田 下相談をしていましたね。
  そうでしたね。
 原田 いまの議会通過の問題と全然関係のない政治的なことは?
  それは後です。
 原田 笹川事務所は、まだ出来ていなかったんじゃない?
 平野 準備を急いで――舟艇協会の側の所に――。
 原田 そう、そう。
 平野 よりよい協力体制を作るために調べたりしていたわけです。しかし、まだ発足できないような情勢で、参議院の運輸委員会で社会党の党議で反対!が出て来たりしたんで――当時、労農党というのがあって鈴木清一さん、途中から運輸委員に変った作家の金子洋文氏、当時社会党の左派でした。この二人をはじめ社会党の菊川孝夫氏――。
  タダオ?後の民社党に入った?
 平野 民社党へ入ったのは菊川忠雄氏、そうじゃなくて菊川孝夫氏、なかなかの論客、労組出身で競馬が好きなんですが。この人たちが、運輸委員会で次の議題がボートになっているのを、毎回、その前の議題について長時間質問するという引き延ばしをやってボートの審議に移れないんです。もうひとつは運輸委員会に民主党の前之園喜一郎さんという方がいて、票決の場合この人の一票で、賛否どちらにしても六対五で決まるという状況でした。
 法案は、本会議で否決されれば衆議院へ戻るけれども、委員会でつぶされたら永久に日の目を見ないんです。前之園さんがごきげんが悪い――きょうはどうもあぶない――というんで、ときどき廊下へ出て私に耳うちしてくださったのがかつて運輸大臣をやられた村上義一(自由党)さんでした。村上さんや高田さんが、「平野君、きょうはやめようと思うんだ、継続審議にしちゃおうと思うんだ、前之園君があぶない」というんで――こうして時間をかけて、ある日採決にかかってようやく六対五で通ったんです。
  私はこんなに(両手を差しあげて)なって喜んだよ。
 平野 いよいよ本会議にかかるというので、まず参議院の婦人議員を口説こうと――当時は緑風会が圧倒的に多かったんですが、同会の奥むめをさん、社会党の赤松恒子さんをはじめ各党の婦人議員のところをまわったんですが、「平野さん、これはダメよ!ギャンブルは亭主族が奥さんをいじめるものだから、婦人議員は超党派で反対と決めたから、何度お願いされてもダメ」と、取りつきようもない。それでも「本会議のベルが鳴ったとき欠席してほしい」と頼んでまわりました。
 藤 しかし競輪は社会党もかついだねえ、競輪は鳩山内閣時代に、やはり議員立法でやったんでしょう。
 平野 当時の緑風会の政調会長高瀬壮太郎さんが、NHKの会長や文部大臣をやられた下村海南先生の後輩として非常に親しい間柄であることをうかがって、ある日、田園調布の下村先生のお宅へお伺いしました。早朝、恐る恐るベルを押して、奥さんに取次ぎをお願いしまして――私は直立不動で「先生!きょうはお願いがあって伺いました」「なんじゃ」「これこれこうゆうわけで、高瀬壮太郎先生にご紹介状をいただきたい」「墨をすれ」というようなことで、すらすらと書いてくれました。
 『好漢平野のいうことを、できる範囲で聞いてやってほしい』と書いてある。モーターボートとも何とも書かないでそれから高瀬先生に会うまでに一週間かかりました。紹介状を読まれて「ウン、ウン」と、しばらく考えていましたが「先生に、こういってくれ。ほかならぬ先生のお口添えだから――実は党議として反対と決める空気が非常に強いが――何とかして自由投票にする」と。参議院の本会議で負けましたが、当時、議員数で圧倒的多数の緑風会は、自由投票になって党議としての反対ではなかったんです。
 これは、私が使い走りをした狭い一面だけで、あの法案をめぐって、いろいろな方が大変な努力をされたと思います。法案が本会議で否決されたころ、北海道開発法案の審議で国会の期間を三日間延長する、しないで参議院の議長室で、与党と野党がもめていた最中なんです。もし三日間延びなかったら、今日のモーターボートは誕生しなかったかも知れません。参議院で否決されて議会が終われば、それでおしまいだったんです。結局、三日延びた間に、皆さんの懸命な努力が実って国会最終日に、中島議長の一声でサッと起立多数で決まっちゃったんです。その時、社会党席で立ったのが土井直作さんお一人、党議で反対している法案に立ち上がったのを強い印象として思い出します。
  この法案のことで、山岸さんという人が相当活躍されたでしょう。
 平野 順序は逆になりましたが法案をかけるまでに、いま防衛庁で調本の検査課長をやっていられる山岸さんが、官僚には珍しい――。
  豪傑だったんだな。
 平野 野人タイプで、気ばってやってくれました。忘れることのできない恩人です。
  その本会議がすんで可決されたあとに、いわゆる銀座派と歌舞伎派の対決があったわけだ。
 原田 歌舞伎派というのは印象になかった。
 平野 だから歌舞伎派なんてのはなくて、銀座派だけだったわけなんだ。もともと、こっちが知らなかっただけかも知れませんが、ところが議会にかかっている間に、運輸委員長が「自分のところにかかった法案を施行する時に、その親方になろうというのは、大蔵委員長が日銀の総裁になろうというのと同じだ」というようなこといい出して――向こうは車は持ってる、議会に部屋はある。こっちには、そんなものがあるもんか、金が一銭もなかった時代でしょう。権威や権力の点からもスターバリュウやネームバリュウの点、立地条件など、これは向こうがいいですわ。歌舞伎派の事務所は、前田さんの「よし、おれが作ろうか」で始まったんじゃないでしょうか。
  甘利さんが局長の時代?
 平野 そうです、甘利さんもずいぶんご苦労されたことと思います。
 苦労してここまで持って来て、大体形が整って、運輸委員長のところで「おれがやろう」は、ひどいですよ。まだ若かったから、当時はずいぶん憤慨しましたよ。
  あそこの第五会議室かで、山崎猛さんが運輸大臣のころだろう、あれと前田とが変だった。あそこで会議をやって、圧倒的多数で連合会を前田とその一党で占めよう、こういう考えだった。
 平野 山崎猛さんで思い出しましたが、やはり大臣は偉いなあ、と思ったことがあります。参議院の運輸委員会だったと思います。運輸大臣を引っぱり出して、社会党の反対派から相当露骨な吊るし上げがあったんです。
 「大臣として、この法案がいまの地方財政を救済する意味でこれしかないと思うか。大臣としてこの法案を通した方が良いと思うか。もう一つ、議員提出となっているが、全部、運輸省が作ったそうじゃないか、官僚がこういうギャンブルものを作ってよいのか」
と食い下がったとき、大臣は
 「政治というものは、時にはヒズミが必要だ、地方財政に寄与する唯一無二の法案だとは思わないけれども、現状においては非常に有効だと確信しておる。従って、いろいろご意見もあろうが、諸君、賛成してほしい。また、立法に際し運輸当局が作ったんじゃないか、ということだが、諸君ご承知のとおり、お互い議員は非常に多忙であり、なかなか勉強する機会がない。いずれ、われわれも勉強をし、自らの手で立法する時期が来るであろうが、現実においてはいかなる法案でも、一応、関係者に協力させるということが常識である。従って、これは決して運輸省が独自で作ったものではない。たしかに立法技術については関係省にやらせた方が便利であるということから、そういう意味でお手伝いしたことは事実だが、決して運輸省の立法ではない」
と答え、幾分、議員をたしなめるように
 「早く、こういうもので自治体を潤さなくてもいい状態になってほしいと思うが、いまはこれが必要だ、ぜひひとつ賛成してほしい」と、こういうことでした。
 司会 それで銀座派と歌舞伎派の双方が主導権を争うことになったんですか、地方で――埼玉県も二つになったときがありますが。
  埼玉、神奈川、東京都、その他方々でやったんです。一番貧乏くじを引いたのは東京都で、東京都は連合会の結成で一敗地にまみれた前田を中心とするグループが、東京都競走会というのを作った。連合会に失敗して東京都に集まったわけです。中島守利さん、大野伴睦さん、一円の大政治家、顧問、相談役をズラリと並べて――現在も書類が残っています。
 平野 前田さんの方が歌舞伎座に事務所を設けて、国会議員で運輸委員長であることをバックに――。こちらも、ずいぶん動きましたね。三木武吉さん、池田正之輔さん、その他、前田さんに反対という味方もいましたから――。
 藤さんの紹介で、埼玉の石川さんのお供をして、広川さんを自宅におたずねし、経過を報告かたがた格段の配慮をお願いしたのもそのころです。
  そのうち、いろいろな経過をたどって銀座派と歌舞伎派の第一回の合併交渉が行なわれることになり、銀座派を代表して交渉に行ったのが平野君、板倉君、私の三人だったかな。歌舞伎座へ――。
 平野 当時、東京都競走会が、どんな形で、いつ出来るかということは、全国に及ぼす影響が大きかったんです。
  そのときの歌舞伎派の代表が田辺、内藤。
 平野 東京の事務局長をやった――。
  坪井?
 平野 そうそう坪井さん、以上の方たちでした。
  その前があるんだ、歌舞伎派の東京都の創立総会の案内状が矢次さんに届いて、矢次さんが「藤君、君は東京都の議員もやっていたし、君、行ってくれないか」といわれて、乗り込んだが入れないんだ、会場は丸の内の商工会議所。あとで都議会議長をやった大久保重直、渋谷の区長をやった斉藤清亮、そのほか私の友人がずいぶん居るんだが、それを呼び出したら「藤君、どうしたらいいか」というから「つぶせ、この総会をつぶせ」といったんです。「そんな無茶なことを・・・」「つぶさなければ、おれがつぶすぞ」「ともかく顔の立つようにするから、引きあげてくれ」と、とうとう入れずじまい――。
 平野 同じように前田さんが連合会設立準備発会式の案内状を全国へ出したことがありましたね、会場は議員会館で、当日、銀座派から荒居養洲さんと私が派遣されました。一応先方とは事前に連絡がとれていて、当日は後で問題になるような重大な決定はしないという紳士協約があるから傍聴してこい、というわけです。「何か決めそうだったら大きな声で反対しろ」といわれて――。会場受付氏のイヤな奴が来たという顔つきに、二人は敵陣へ乗りこむような――。
  敵じゃもん――。
 平野 まったく。二人は前田さんに挨拶して「招かれざる客で申しわけありません。使いで参りましたが、何か、おやじ同士でお約束があるそうで、ぜひ、励行していただきますよう、万が一、お守り下さらん場合は、私たちにも発言の自由を認めていただきます」と、結局、坪内八郎さんが、いろいろボートの説明をしただけで、何も決めないで終わりましたが――。
 東京都競走会の総会と連合会の設立準備会と、手っとり早く既成事実を作ろうとしたんでしょう。事情を知らない地方の人たちは、これが本筋だ、いや本筋どころか、それだけしか無いという印象を持ちますから――命令は傍聴ですが相当な覚悟で乗りこみました。
  大体、プロにモーターボートをやらせようとしたのは、江戸川と逗子で日米対抗があって――これは渡辺儀重さん、山本、田村、この人たちがやったわけです。板倉弥三郎を中心に申請しておりました。逗子が非常に成功したというので江戸川の小松橋のところで、ボートレースをやったときは十万からの観衆が集まって――その後、相模湖でもやりましたねえ。
 原田 相模湖では、外人が定期的にやっていました。
 平野 いよいよ原田君が活躍される技術的な問題になるんですが――前田さんが動き始めて、完全に銀座派だった堤徳三さん、それから福島女史、この人たちがいつの間にか向こうの陣営に入ってしまった。
 法案が通ったあと、法に基づく施行令や実施細則を作らなければならない。これで原田君が苦労されたんです。ビニールで舟の形を作ったり、時計の模型をこしらえたりして運輸省へ持参して――毎週月曜日の午後一時から四時ごろまで、二ヵ月くらいかかったでしょうか?
 原田 あの模型はまだありますよ。
 司会 この辺で、始まるまでのところをまとめてみたいと思いますが――、連合会を作った当時、会長は足立正さん、運営委員長矢次一夫さん、競技委員長笹川良一さん、技術委員長千葉四郎さん、理事長滝山利夫さん、総務部長平野晃さん、競技部長原田綱嘉さん、技術部長道明義太郎さん、と二十六年十一月二十八日設立の記録に、こういうふうにあります。次に、私どもの調べでも大村の初開催はわかるんですが、津が公認第一号ということになっていますが――、この辺のところは――。

大村競艇の初開催 名審判―天地神明に誓う

  最初はテストケースとしてやったですから――。
 司会 両方が同じように認可申請をしていて、運輸省が番号を付けるのに、津の方に「一」と付けている。同時に来たものだから、津が一号、大村が二号というふうになっているわけです、認可が――。
 原田 競走場の認可がですか?
 司会 ええ、認可がそれだから津の方は、おれの方が第一回だということで(「津競艇沿革史」を示しながら)この本にも出ているわけなんです。大村の市長さんと津の市長さんがご一緒のところで「われわれの方の沿革史には、大村を初開催として扱いますから――」とご了解を願ったんですが――。
 大村へ行って聞いたんですが、当時、アマチュアか何かのテストをしてから、本番に入ったということで――ドラがありましたが、どこから持って来たドラなのか――ドラの写真も、そのとき優勝したキヌタ第一号の写真も写して来ました。原田さんがいらっしゃって「審判の判断は天地神明に誓って間違いない」というようなことを、おっしゃったことも聞いています。それから常盤館でしたか。
 原田 ええ、常盤館――。
 司会 なんでも弁当をあっちで持つんだ、こっちで持つんだ、というようなことで朝までかかったとか、当時の総務部長さんと審判長さんがいらっしゃるので、選手をどういうふうに集めたか、機械や器具はどういうふうにしたか、初開催当時のお話を承りたいと思います。
 平野 大村で開催するために、急いで施行細則を作らなければならないんで、競輪、競馬も見に行ぎました。甘利さん、今井さんと一緒に船橋ヘオートレースを見に行ったこともあります。甘利さんは当時の金で千円でしたか、「買ってみろ」と、同行の事務官に買わせたりして――始めて、穴場の中へ手を入れてみたわけです。先輩ギャンブルを技術的な面で研究しようと懸命でした。原田君がそれらのことを加味しながら、モーターボートとして初めてのものを作っていく。
 いま見ると、幼稚で、ずいぶん大胆なものであったとしても、無からそれを作ることは、原田君のようなエキスパートがいたからできたのであって、大変なご苦労だったと思います。と同時に、選手と舟とエンジンをどうするか?国産でキヌタというのがあるらしいが、相当な金がかかる――どうなるかわからん危険な事業に、一体、持つ者があるだろうかと。最初は、施行者が持つなどということは考えていなかった。競走場は作った――。エンジンや舟の持ち手がないから、やむをえず施行者が持つということになったんで――。三共製薬の鈴木万平さんのところで、年間どのくらいの広告費を使っているか調べたら、何百万円かを使っている。よろしい、ぢゃあ三共もオーナーとして出そう――ということになったが、いつ、どこで、年間どのくらいのレースがあるのか、といわれて、そんなものは何もありゃあしません。それでは持ち手は出ません。やむをえず競走場を作った大村市が用意することになった。用意しなければ開催できない。開催できなければ市長、議員さんたちの立場が無い、延び延びになっていたから――。
 私たちは、運輸省の山岸さんと一緒に、オーナー会社の構想を立てて損益計算書を作って見たことがあるんです。舟を何隻、エンジンを何基、その購入費がいくらで、何回レースに出て――選手数も少ないので、苦心の末、他のギャンブルにはないことを考え出したわけです。二回出て、最初のレースでビリだったのが、後のレースでトップになったらえらいことになるとか、一日一回じゃペイしないんです、事業的に――。
  そういう点で、原田氏あたりは二回出すことに疑問を持ちましたか?
 原田 選手もボートも少ないんですから、番組の上で好む、好まないじゃなくて、三回も出さなければならない状況だったんです。ですから“あなたのところはボートを持つかということが、競走場認可の一つの条件になっていたようです。
 平野 施行者がオーナーにならなければ開催できなかったんです――用意はありますか、とそういうことでした。
 原田 はじめは個別オーナーのオートレースのように、自分持ちのボート、モーター。あるいは広告用のモーターボートなども登場するかと思っていたんですが、ふたをあけてみると、そうはいかない。それでも各地から競艇場の開設希望は出て来る。あなたのところはボートを何隻持つか、持ってくれ。とこうでした。
 平野 そうせざるを得なかったんです。
 司会 現行の規則では、自由オーナーですから三越号でも松坂屋号でもよかったんですが、持ち手がないから競走をやるものが持たなきゃならなくなって――。
 原田 そうなんです。当時の構想は三共号、松竹号、三越号というふうにいったら面白いだろう、と考えたんですが、いまのようなオーナーになっちゃったんです。
 司会 大村の写真を見ますと、大時計もある、旗もあるで、一応整っているようですが、機械と舟は大村で作ったとして、選手はどこから連れて来たんです?
 原田 長崎が早く競艇場を作ったんで、坪内さんが選手を養成していたんです。それと並行して――あるいは少し早くでしたか、大津の佐藤さんの選手養成所が出来て――。
 高橋 佐藤さんの養成されたのが第一回だったでしょう。
  半々くらいだったでしょう。
 原田 大村の第一回は半々でやりました。三月の初めに大津で採用試験をやって開催直前に大村で試験をして合格者を登録する、大津からも来るというようなことで、合流させてレースをやりました。
  選手養成所は佐藤さんが作ったんでしたかね、笹川先生が相当力を入れてやらせたんですね。例の一、二時間の即成で出来あがった連中について、私が調査に行ったことがあります。
 司会 あのドラは、何で鳴らしたんですか。
 原田 あれは競輪でやっているからというんで、最終回周をドラでやったらという思いつきで――。
 高橋 あれは汽船のドラを持って来たんでしょう、大村のときだけですね?
 原田 はあ、一節だけ使ったかどうか。
 平野 現在は二秒遅れたら失格だ、一秒でどうだとかいってますが、当時のことを考えると隔世の感ありですよ。選手誕生のかげの努力は、永久に忘れてはなりません。笹川先生のご配慮と、実際にこれをやられた佐藤与吉さんのご努力は大変なものです。日本で初めてですから――選手が幼稚であろうと、施設が粗末であろうと――。
 大村では、貴重な金を投じて買入れたキヌタのエンジンが大事で、ダイヤモンドの宝もののように選手に扱わせたものです。びわ湖から来た選手に抽選で割当てて競走前の練習に入ったんですが、初めて海へ出たので、あっちへ行く、こっちへ来る、止まる、岩にぶつかる。行っちゃいけない場所には旗を立てて、さんざん説教してもお構いなしで、まるで檻から出た小犬のように――。大村市の猪川事業課長が「連合会はどうしてくれるんだ」と怒鳴り込んで来たり――エンジンは選手に貸与した市の財産ですから、こわされちゃあ大変だということで――。
 司会 スタートは、やはりフライングスタートでしょう?
 原田 そうです。
 司会 いくらか問題があったように聞きましたが――。
 平野 原田君の歴史的な「神かけて・・・」の審判が始まったんですが、待機水面はあっても海だから広い、こっちはスタートするというのに、行ったきり帰ってこない舟もある。先頭が第一マークを回るまでに――一五〇メートルくらい距離があるんですが――スタートラインを出たら有効だなんていって始めたんですから――。審判長をやっている原田君のところへ、レース最中、警察署長がファンを連れて来て「いまのレースを説明してやってほしい」というんです。原田君から私に電話で「署長が来て説明しろというんだが、説明するのか」というわけです。猪川課長は、「連合会はどうしてくれるんだ、あんなのを選手にして」と怒鳴る。佐藤さんと猪川課長の両方から「おれの方で養成したのを落したじゃないか」「あんなのが選手か、落ちた方がよっぼど優秀だ」などと、私と原田君はずいぶんやられました。
 司会 そのころの審判長室には、測定機や写真撮影装置は無かったんですか?
 原田 競輪ではスリット写真を使っていたんですが、ボートはあんなだとは考えなかったので、いよいよってことから初めて――一枚写真をというので、大時計の0点に接点を合わせて、リレーでシャッターを押す装置を付けた箱型の判定写真機を作りました。ところが、その機械が第一回のスタートでこわれちゃって――0で押したらスプリングが強すぎて、カメラが飛ばされて――。
 司会 それでもお客は文句をいわなかったんですね。
 原田 別にいいませんでした。
 司会 決勝は目測以外ないわけですね。
 原田 スタートだって同じですよ、これなら大丈夫というわけで――。
  それが“天地神明に誓って・・・”というわけ――。
 平野 スコールが降ったときでした。私は競技委員長のところにいたんですが、競技委員長が審判長に連絡しないで、黄色の旗を振っちゃったんです。スタート直前、スコールで一つ、二つエンジンが止まったので、スタートのやり直しをさせようと、審判長から見えないところで、やったんです。「おうい平野、なんで止めたんだ」と電話がかかってくる。舟が水上へ出たら審判長の権限だということは、大分たってからわかったようなことで――。
 原田 エンジンのかかるまでが大変なんです。なかなか、かからなくて――ですから予備艇を用意して置いて、出番のエンジンがかからなければ、急いで旗と番号を付け替えて、かかるエンジンを出す。予備艇というのは、しばらく続きましたねえ。
 平野 二、三隻は用意して置きました。
 原田 津のときも狭山のときも予備艇があるわけです。スタート五分前・・・四分前・・・三分前でエンジンがかからないと、代わらせる。いま滋賀県で審判をやっている佐竹君。大津の第一期生ですが大村の第一回のレースで、もちろん初出場ですね、待機水面でエンストして、ようやくエンジンのかかったのが二分前。二分前だからスタートの方へ、とろとろと来ればいいものを沖へ向かって走って行くあの広いところでどうなることかと思いましたよ、すぐ入って来たけれども――出おくれの判定が甘かったですからねえ。
 司会 そういうものをセーフにしたんですか?
 原田 そうなんです。天地神明の話ですか、各レースごとに何ばいも何ばいもフライングするんです。技量も未熟ですから、まともに出るのがいない、それをフライングだ、と返還したら大変なんです。天地神明の時は(両手をひろげて)こんなに切ってるんです。お客だって横から見ていりゃあ、わかりますよ。そこで文句をいって来る、返還すると三万円返さなくちゃならないというんです。これは大変だ、なんとかお客を納得させて、セーフにしなくてはと――三万円のために五、六回もそんなことがありました。
 司会 その当時の三万円といえば、大きいでしょうからねえ。
 平野 さっきあなたから話の出ていた弁当のこと、いよいよ明日から本番というときに、市が委任契約で五%を競走会にやるんだが、一体、競走会は何と何を持つんだ。ということから、初開催の弁当はどっちが持つんだというところまでいって――両者の意見がまとまらないまま、最後は競走会は競走会関係の弁当屋、施行者は施行者関係の弁当屋へ注文するということになりましたが、その費用を委任契約の五%の中で持てというのが、大村市役所の意見、それから始まって、ガソリンがいる、何がいる――で初日を明日にひかえて夜中の二時、三時になっても解決がつかない。山岸さんは全部計算をし直したり――結局、弁当は純然たる競走会関係の分だけ競走会で持つということに落ちついたんですが、ねばられて、私は徹夜でしたよ。原田君や青木君の泊まっている部屋へ帰ったのは明けがたの五時ごろだったでしょう。
 司会 大村のとき売上げが大したことなくて、競走会の方が困ったとか?
 原田 初日が二百四十万、二日めが百何万、三日め二百六十万、三日間で六百何万――。
 司会 六百万の五%、それじゃあ競走会は合わなかったでしょう。
 藤、平野 合いませんねえ。
 原田 当時は百二十万平均あれば、競走会はペイしたと思うんですが――大村の初開催の一日平均二百何万は、当時の競輪などから見れば“これならボートもいける”と判断されて、大村を境にして皆さんから申請が殺到したんです。そのころ、津は既に進行していました。大村の三日間六百万円は、当時、ぺーすると読まれたわけです。
 司会 大村は幾日やったんですか。
 原田 六・七・八の三日間。百万円でぺーするという判断は、大村、三国、もうひとつはどこだったか、三ヵ所売上げの悪いところがあって――不振競走場と失礼なことをいったりしましたが――そのころ百何万円あれば最低限度息はしてゆける、だから二百万は良かったらしいです。フライングで三万戻すといったら、ビクビクしましたが――。
 平野 春四月だけど寒くてねえ、みんな運動靴と作業服カーキ色の――笹川先生が大村へ着いたときでした、先生はすーっと洋品屋へ入って、みんなに何か買って下さった。私は紺のセーターをいただいたんですが、いまでももっています、着れるんです。
 混乱のうちにも、とにかく初開催のお手伝いの大任を終えて、帰りがけにお土産をいただき「若い者が大勢で、ずいぶんご無礼があったと思います」「いいえご苦労さまでした」「ひとつ、そういうことにお願いして」「では、これをどうぞ」というわけで、連合会として市から受取る競走場その他登録料等の入った封筒を、隣の部屋へ入ってあけて見たら――十一、二万円の予定が七万しか入っていない。連合会の台所は火がつくようなころで、七万じゃあ帰れないんです。また部屋へ戻って、恐る恐る「大変申しあげにくいんですが、実はこれじゃあ帰れないんです」とやったんですよ。
 原田 ねばっていましたねえ、私も知ってました。
 平野 つらかったね、それで猪川さんらに、一ぺん市役所へ帰ってもらい、何かの金を足してもらって――。

津競艇の初開催 準備不足でゴタゴタ

  津の時は、余興もあったね。
 原田 津の時ねえ。
 平野 あの時は苦労したなあ――。
 原田 みんな張りきっていた、水田勇さんも柏木さんも張りきっていたけど、こっちも負けるもんか――と張り切ってましたよ。
 平野 藤さん!私はきょう初めてお話しするんですが、“僕らの泊っている宿へ、藤おやじが来ないようにしてくれ”といったのは、原田君と青木君ですよ。
  それは知らなかった。
 司会 藤先生が来ては困るというのは、どういうことですか。
 平野 大体、怒鳴って歩くおやじをニコニコ歓迎する者はおりませんよ、一ぱい入ると、だれをつかまえても「こらッ――」とやるんだから――。そのころ、津は開催出来るか、出来ないかで、ごたごたしていたんです。開催の前日になっても、エンジンを持ってピットヘ入ると、ピットがもぐっちゃう、メガホン一つ頼んでも、なかなか間に合わない。
 その日、原田君と青木君は憤慨して、午後、途中で引き上げちゃった。“開催の案内状は出したが出来ないだろう「連合会の責任だ」”という市長の談話が新聞に載って―
 私たちの宿屋へ新聞記者が押しかけて来ました。原田君と青木君は「お前の役だ」といって出てくれない。「市はいまこうなっている、開催できんのじゃないか」というんで「そんなことはないでしょう」と、とぼけて「こういう準備というものは、一晩のうちに城が出来るくらいのものなんです。大体、どこでも初開催というときに、三日も前に準備完了というような所はありません。おそらく、この一週間で一ヵ月分、一夜で三、四日分の整備が出来るでしょう。中西助役が徹夜でおやりになるといってましたから――」と。
 こちらは、一応、その日の仕事が済んだから引き上げたんですが、連合会は憤慨して「もうやれない」といって、引き上げたというふうに伝わって――。
  私は桜水樓に泊っていたが、そういうことは知らなかった。板倉もそちらの方へ行っていたし――。
 平野 板倉さんは私たちと一緒でした。
  私が一ぱいやっていたところへ、当時の議長近藤君と現在、競艇委員長の柏木君の二人が、朝日新聞を持ってやって来て、それに、明日の開催は出来ない、と書いてあるわけだ。“どうしても明日やらんことには、市の面目が立たん、何とか方法はないか”というわけで――いまだから話すけれど――。
 平野 なるほど。
  どういうことで怒ったんだと聞いたら、ちょっと無茶だ、まず矢次、笹川が帰る時に市長が汽車まで見送りをしなかった。無礼千万だというんだ。向こうは山岸舟艇班長はじめ、あそこで一ぱいやっているんだ、何とかならんかという。
 こっちは、ちょつと腹が立っていたんだ、ボートが海に浮かぶようになったら、すべて君の功績にする、とこういう大きなことをいっておいて、何らの挨拶もない。中央委員の末席に私を入れといて、同志の板倉弥三郎は末端だ。縁の下の力持ちばかりだから本人は満足しているけれども私は見るに忍びない。中っ腹のところへそんな話が来たんで、おやじに聞いたんです。少し無茶だという、私は「この際やりますよ」「あまり無茶やるな」と。そこへ松岡賛城が来た。それで私と柏木と松岡と三人で、清月という料理屋だったと思う。矢次さんに面会を申込んだが何の返事もない、ダッダッダッと上がって行った。きら星の如く居並んでいる。もうけんかだから――おい、矢次、一体やらすやらさんなどと、どういう権限があるんだ、山岸君だって、わずかばかりの権力を持った役人が何の権限があってこれをやるんだ。と、ぱあーっとやりまくった。やーさんも山岸君も、かあーっとなっちゃって――それでやーさんと私のけんかの始まり――。
 平野 それは(原田氏に)君らが引上げた後だろう、君と青木君が引上げちゃったんだよ。
 原田 うん、うん、うん。
  それから君のところへ行ったんだ。
 平野 私は何にも知らなかったんだ、相談なしに技術部長が引上げちゃったんだ――矢次さんや笹川さんの指示も仰がなかったし、こっちは、ずうっと幾日も寝ずにやったわけだ、泥んこになって――ところが津の担当課長さんは新任されたばかりだったので、命令一下というわけにいかなかったでしょう。
  増田さん?
 平野 増田さん。血気盛んな原田君と青木君が引上げちゃったんですよ、何をやっても、いかにいっても間に合いそうもないと、とうとうリミットに来ているので――巨頭連中の指令で動いたんではないんですよ。
  いやいや、新聞に――。
 平野 どうも志田市長さんがPRの意味もあって、新聞社に少し大げさに発表したきらいがありましたね。
 後で中西助役が飛んで来た。私は「うちの技術屋連中が、こういうことをいってるんです」と、幾つかを話し「私も徹夜します、失礼ですが、今日は中西助役ご自身で指揮して下さい。これが出来なければ私らも大変なことになるんです」と、原田君と青木君のいったことを書いてあるのを整理して十くらいにして「中西さん、明朝六時に私が見に行きますから、このうち幾つが出来ているかによって決定しましょう」といって、別れました。若気の至りで、ずいぶん失礼してしまったんですが、当時、私たちも真剣でしたよ。
 それで早朝五時半に行ったんです、岸壁へ――そこで長い長い握手をして――。藤さん、あなたが来るというんで原田君や青木君にはつるし上げを食うし、新聞記者は押しかけて来る。板倉さんが一緒だったんで、ずいぶん心丈夫でしたが――。
 司会 いろいろ、そういう苦労があって開催になったんでしょう。
 平野 開催になって、前日の事件の内容を報告しなければならない、概要をすぐ運輸省の甘利さんに連絡したんです。
  それで山岸君が代わるようになった。おやじさんは、あそこを開設してからほとんど私とものをいわんし、会えばけんかばかりして――石川一衛さんが中に入って、手を握らしてくれたんで、それからは、おやじさんと一緒に出張した。
 原田 藤さんは、夜呼び出されたんじゃないんですか、柏木さんのところへ――。
  私の宿へ行った。
 原田 いや、そちらの何とかいう宿へ――柏木さんも藤さんもいたよ。
  そうだったかな――。
 原田 かなり遅い時間に――。
 平野 いまから考えると、行動力の旺盛な頭脳明せきな青木君、選手の指導、技術面からモーターボートの運営に献身する原田君。新聞記者に押しかけられたとき――冷静に、懸命に応対して、それでも疑う記者には「じょうだんじゃない、これがやれなかったら連合会にも運輸省にも犠牲者が出るでしょう?全く、私ら市長と同じ立場にあるんだ」と。そして「明日開催してみせる」と。
 司会 帰られた原田さんたちは、また来たんですか?
 原田 引上げたというのは旅館にですよ。普通は、前日は夜遅くまでやるか、徹夜しなければならない場合もあるのに、午後二時か三時ごろに、憤然として「これじゃあもう出来ません」と、本当にやらない積もりじゃないんだが、ある程度発破をかけたんでしょう、止めたって聞きゃあしないんです。それも新聞社のオートバイで――。
 実際に設備は出来ていなかったんです。競技部の裏の方は民家を借りて――電気を置く所が明るいというような普通の通路で――工場に入っても室も管理も出来ていない、それで、これだけは是非必要だというものお願いしてやったんです。中西助役、増田課長は新任で命令が徹底しなかったり、その上、私たちのいうことを受け入れる感覚が違うんです。私たちは大村でやって、すぐ津ですから、こちらは真剣に「コップを置いて下さい」「水を用意して下さい」というんだが、受け入れる方では軽く受けていて――。しかも連日のことだから、かあーっと来て引上げちゃったんです。
 司会 市長だって自分でやるんだから、もっと力を入れてもよさそうなものですが――。
  いゃあ!それはやーさんに一発、出ばなにやられたんだから――。
 司会 大体いままでのお話で、開催の苦心談を伺ったわけですが、四大競走というのはどうして出来たんですか。
 平野 話は前後しますが、各地で競走場設置の認可をとることについて、熾烈な競争があって――、大変政治的な一つの例をあげますと、全国で佐賀県だけは知事の副申なしで認可を受けているはずです。佐賀県では、唐津にするか、伊万里にするかで、当時、副知事と経済部長がどちらかの出身で、両方、わが地元へ競走場をということで、板ばきみになった知事さん――鍋島さんですか――が副申を付けない。延々と延びること。結局、競艇場は唐津に、国体を伊万里に持っていくということで妥協はついたんですが――。これに代表されるように、主催権の獲得と同時に競走場をどこに設置するか――当時、一都一県に二競走場以上はいけないという規定があったわけです。
  ただし、東京都は三ヵ所。
 
第一回ダービー好調 記念競走も発足

 司会 ダービーのことですが、何かそういうものを設ける理由のようなものがあったんでしょうか、また初開催はどこでしたか。
 原田 ダービーの初開催は若松です。
  若松です、私は、会長代理で祝辞をやりました。
 平野 日本選手権をやるということは、それはもう最初からの念願だったんです。当時、競艇場が少なかったことと、その中では若松が比較的まとまっていたということでしょう、まだ福岡は出来ていなかったんじゃない?
  いや、出来ていたでしょう。
 司会 始まって間もないころですが、ダービーがやれたんですか。
 原田 大体、少し上向いてきてたんです。ダービーは盛大でしたよ。観客も集まったし、売上げも当時とすれば良かったです。相当な盛り上がりをみせて――。
 司会 モーターボート記念競走というのは、どんないきさつで始まったんですか。
  ダービー、地区対抗は、大体、一流のところでやったわけで、まわっていかない施行者があるわけです。それで、記念ボートをということで追加されたはずです。
 平野 ダービーの開けない所、順番がなかなかまわって来ない所でやるということで、苦心の結果、記念競走が生れたわけです。
 話は戻りますが、大村の初開催は、あそこなら手直しが利くということがあったんです、テストケースということで多少の落度があっても――。本当は、本番だから第一回は大村ですが――当時、連合会と運輸省の打合わせでは、大村なら国の一番端だから、何かあっても致命傷にはならないという、深謀遠慮といいますか――。
 原田 当時はいろいろと大変でしたよ。あのころの笹川事務所のことですが、じゅうたんは敷いてあるけど泥だらけ、暖房なんかないから寒くて仕様がない。中村さんに袋入りの炭を買って来てもらって、七輪、あの四角な七輪に火をおこして――私の家も逼迫してたけど、もう少しは暖かかった。
  このくらい(手を拡げて)の大きな火鉢が、会長のところにあったでしょう。灰の上に、半紙に赤い字で“火の魂”と書いたのが載せてあって――。
 原田 大きな火鉢でしたねえ。
 司会 なかなか、どうも――。
 平野 二十七、八年の揺らん時代、現役だった方々は、だいぶ変ってるんじゃありませんか、施行者、競走会ともに、初代の運営や設備で大変苦労された方々は――。
  現在残っている中で、一番古いのは笹川先生。それから私か。青木君は職員だったかな、役員では笹川先生と私、向井さんは一度やめたから――。
 平野 卒直に申しあげて、今日まで政治的にも経済的にも、いろいろな危機があったのを泰然と乗りこえて今日あるのは、何としても連合会が強力だったということ、笹川先生の大きな政治力はもちろんですが――、代わっていないということ。何かの機会に、ちょいちょい頭が――幹部が代わっていると、生きた運営はできませんよ。
 司会 この間も、笹川先生から「施行者はたるんでる」といわれましたし、青木さんには「ゆるふん」だといわれるんですが――私もいつもいうんですが、これは、われわれの組織の弱点なんです。新しい部長や新しい課長が、一年か二年やって、いくらかレースのこと覚えたかと思うと転任してしまう。だから「ゆるふん」といわれても、組織上まったくどうにもならない。いくら、いらいらしてみても――私どもの組合のように、十年も置きっぱなしの所と違って、県や市でやってるところは、どうにも仕様がないという弱点をもってるわけです。
  いま残っているところでも、長崎が代わったでしょう。福岡も、唐津も、山口も代わったし、岡山も代わってるでしょう、広島は残っているね、ひとつ。香川が全部代わってる、四国も――。尼崎は復活したが向井さんが一度やめている。
 平野 ――それも会長が引退された――専務がなったというのは、これはまあ継続ですが――。
  小池さんは、はじめからかな。
 平野 はじめからです。
  それから一瀬さんがはじめからでしょう。
 平野 はじめからです。名古屋は?
  神戸さん。
 平野 一番はじめは下条さん。揺らん時代からずっとご苦労されて、今日かくしゃくとされてる方は、少ないでししょう。
  少ないですよ。
 司会 どうも長い間、いろいろとありがとうございました。では、この辺で――。





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