-養成訓練編−
総論
(モーターボート連合会30年史より) 

 昭和26年6月18日、モーターボート競走法が制定公布され、公営競技としてのモーターボート競走を実施する法的根拠は確立きれたが、競走用のボート、モーターもなければ、どのような競走水面を造り、どのような投票所を作れば競走が実施できるのかさえ明確にわかっている人は誰れ一人としていなかった。
 それでも、ボート、モーターをはじめとする器材や施設は、資金の手当てさえつけば調達することはできたであろう。しかし、競走の表舞台で活躍すべき選手や、裏方として競技運営にあたる審判員、検査員、整備員などは全くと言っても良いほど見当らず、また、一朝一夕に養成できるものでもなかった。
 法律はできたが器材は無い、人も無いという全くの無い無い尽くしの状況で、何時、どんな風にしてモーターボート競走を開始するのかという計画はもちろん、その素地すら全く整っていなかったのである。
 日本におけるモーターボートレースについては、これまでにも各篇で述べてきたとおり、極く小数の学生や上流階級の人々の間でのスポーツとして行われていた程度であって、大多数の人々はモーターボートそのものさえ見たこともないといった状況であった。加えて、第二次世界大戦で完膚なきまでに破壊された日本には、戦前に使われていたレース用モーターボートさえも散逸してしまっていた。
 モーターボート競走法案が国会で審議されていた昭和25、6年当時、神奈川県の相模湖では毎週のようにモーターボートレースが行われていたが、これに参加し楽しむ人々の大部分はアメリカの軍人で、日本人の姿を見かけることはごくまれであった。この当時、日本人のほとんどは、敗戦の傷跡も癒えやらず、その日、その日をどう生きて行くかに汲々としていた。
 このような状況の中で、1年あるいは2年というような短期間のうちに、多数の競走用ボート、モーターを調達し、これを操縦する選手と競技運営に欠かせない審判員、検査員、整備員を養成し、諸規則を整え、競走場を建設し、モーターボート競走を発足させるということは極めて困難な事業であった。
 同様の社会情勢のもとで昭和23年には競輪が、昭和24年にはオートレースが発足し、多くの観衆を集めていたが、自転車やオートバイは戦前からアマチュアレースが盛んに行われており、そのアマチュアがプロに投じたことや、その後の急速な拡大には底辺の広さが幸いして、特別に選手養成を行わなくとも開催に必要な選手を確保することはできたのである。
 しかしながら、モーターボート競走の場合はアマチュア層が極めて薄いうえに、集団でプロに投じるという気運もなかった。そのため、まだ海のものとも山のものともわからない競走を開始するにあたって、選手をはじめ競技運営に必要な審判員、検査員、整備員、各種業務の補助員を務めるアルバイトの学生に至るまで、すべてを教育し、必要な知識と技能を修得させなければならなかったのである。


1.草創期の選手養成
 選手養成の必要性に最初に気付いたのは、モーターボート競走の考案者である笹川良一会長であった。笹川会長は法案審議中から、日本にはモーターボート人口が極めて少なく、しかもその大部分はいわゆる上流階級の子弟であり、プロのレースが発足しても彼らがプロに投じることはまずあり得ないであろうと考えていた。
 また、モーターボート競走の将来については、「モーターボート競走が開始されれ
ば、競輪の例から見ても、全国各地で一斉に開催することになろう。よって、これを可能にするためには専門の選手養成機関を設け、多数の選手を養成するとともに、国産のボート、モーターで競走ができるよう研究しなければならない。」 と考えていた。
 このため、モーターボート競走法成立直後に、実弟の笹川春二氏(故人)に選手養成の手配を、また戦前、中島飛行機で飛行機の設計をしていた黒川五郎氏にボート、モーターの製作を依頼していた。
 笹川会長の依頼を受けた春二氏は、当時滋賀県自転車振興会の理事であった佐藤与吉氏に選手養成の協力を求め、佐藤氏は笹川会長の要請に応え、昭和26年8月28日、「琵琶湖国際モーターボート選手審判員養成所」を開設、31年10月30日の閉所までの5年余の間に1000名余の選手を養成、一方、黒川氏は「ヤマト」モーターをはじめ、今日のボートの基礎となるボートを次々と開発し急激なモーターボート競走の拡大に応えたのであった。
 草創期の選手養成を代表するもう一つの柱は、長崎県大村市をはじめ、狭山、和歌山、芦屋で行われた競走会等による養成である。
 こうして草創期の選手養成は、私的機関でありながら連合会の公認養成所として全国的な視野に立ち選手養成を行った、いわゆる琵琶湖養成と地元選手の確保という視点から選手養成を行った競走会等による養成との2本建てで進むことになる。

(1)琵琶湖養成

 「琵琶湖国際モーターボート選手審判員養成所」は、競走法の制定公布とともに設立準備を開始し、昭和26年8月28日開所式を行い、同年9月3日には1期生の訓練をスタートさせている。
 この素早い対応は、養成所の所長である佐藤与吉氏の努力によるところ大であることはもちろんであるが、その裏には、笹川会長の全面的な協力があった。
 例えば、初期に操縦教官をつとめた領家、堀の両氏は、この当時大阪の笹川事務所に勤務しており、モーターボート競走と直接のかかわりを持ってはいなかった。しかし、昭和26年の7、8月頃に笹川会長の命があり関西地区アマチュアボート界の権威者であった塩飽氏を教官に、大阪道頓堀において3日間の乗艇訓練を受けている。さらにその後、8月の中旬になると、のちに狭山競走場となる狭山池で現在の大阪競走会松岡副会長などと共に7名で1週間程度ではあるが操縦訓練を受けているのであ
る。
 第1期養成の操縦主任教官が塩飽氏、操縦担当教官として操縦教育に当ったのがこの領家、堀両氏であることからしても、笹川会長が養成所の設立を全面的に応援していたことがうかがわれる。
 こうして養成所は関所されたが、教官陣も塩抱氏を除いてはわずか10日間程度の訓練を受けただけという教官たちであり、訓練器材も競走艇は1隻のみ、あとは5馬力のエンジンを装着した箱舟が2隻といった有様で、教官も訓練生もモーターボート競走がどんな形態で行われるのかさえよくは理解できない状態であったという。
 初期の選手養成訓練は、訓練期間中の全乗艇が2時間にも満たないという訓練ではあったが、精神教育の面では佐藤所長をはじめ各担当教官が重点的にこれを行っており、モーターボート競走の使命の何たるか、モーターボート選手の先達としてどうあるべきかの心構え等は、のちの養成をはるかにしのぐものがあった。
 琵琶湖養成所は、のちに連合会の公認養成所となり、時代の流れとともに教育内容も充実されていき、養成期間も3ヵ月、4ヵ月と延長されながら昭和31年10月30日に養成所を閉所するまでに1,000名余の養成を行ったのである。
 琵琶湖養成がモーターボート競走の発展に果した役割はまことに大きなものがあるが、その第1は、アマチュア人口が極めて少なく、しかも選手としてプロに投じる者がほとんどいないという状況の中で、2ヵ月間程度の訓練期間があれば一応選手として通用する人材を養成できるということを、長崎県大村市での選手養成とともに実際に証明して見せたことであろう。
 この事実によって、モーターボート競走の急速な発展に伴う大量の選手の需要に応え得る見込みをつけられたのである。
 第2は、次々に開設する各地の競走場の開催に支障を来たさないように大量の選手を養成し、需要の拡大に応えたことである。
 この当時、連合会は資金的にも、人材的にも選手養成にまで手の回らない状況であった。もしも、琵琶湖養成が行われなかったならば、選手は各々の競走場単位に養成せざるを得ず、それでなくとも開設資金の稔出に苦労をしていた競走会や施行者に余分な負担をかけるため、実際に全部の競走場が開設できたか否かは疑問である。
 この他にも数えあげれば数多くの功績がある琵琶湖養成であるが、今日的な目で見れば、入所時における人物考査や需要の拡大に応えることに重点を置き、技術水準の十分でない者を選手として送り出したことなど反省すべき点もまた多いのである。
 こうして、現在の立場で琵琶湖養成の功罪を考察すれば数限りなくあろうが、総合的に評価すれば、やはり琵琶湖養成所があったればこそ、モーターボート競走は急激な発展をとげ、今日の基礎を築くことができたのであり、その罪とされる部分でさえも、組織的な教育も行わずに登録して競技を実施しなければならなかった他の公営競技の草創期に比べれば、はるかに恵まれた草創期であったと言えよう。

(2)競走会等による選手養成

 連合会が公認した養成所は、琵琶湖国際モーターボート選手審判員養成所のみであったが、その他にも各地の競走会等が行った選手養成があった。
 連合会は、各地競走会が地元選手を養成することに対して、@地元で養成訓練を実施することにより開催気運が醸成される。Aレースの人気を昂めるには地元選手の活躍が有効である。B相継ぐ新設競走場の開設により選手の需要が急激に拡大しており、これに応えるためには選手を増員する必要がある、などの理由で昭和28年8月頃までは、これを奨励する立場をとっていた。
 このような状況のもとで長崎、福岡、和歌山の競走会と国際競艇(株)という民間会社がそれぞれの目的のもとに選手養成を行い、計200余名の選手を養成したのであ
る。
 しかし、大村養成がおこなった選手養成以外は、規模も小さかったので、総論では省略し各論で詳述する事とする。

@ 大村養成

 長崎県大村市はモーターボート競走の発祥の地である。モーターボート競走の初開催の地であることは言うまでもなく、競走場の建設、競走会の設立認可、競走場、ボートモーターの登録が行われたのも大村が最初であり、審判施設、ピット、ターンマークなどの水上施設に工夫改善を行い、実用に通した形にしたのもすべて大村である。文字どおりモーターボート競走誕生の地である。

開設当初の大村競艇場 開設当初の大村競艇場

 その長崎県大村市において、長崎県競走会と大村市とが共同出資して長崎県モーターボート選手養成会を設立し、初開催に向けて行った地元選手の養成およびその後6回にわたり同養成会が行った選手養成が大村養成である。
 法制定当時、大村市では地元出身の代議士坪内八郎氏が衆議院運輸委員会に所属していたこともあって、モーターボート競走法に対する関心が非常に深く、その一方で終戦によって市の財政を支えていた軍が解散し、そのために財政的破綻を来していた。この二つの理由のもと大村市では、早急に代り財源を見つける必要にせまられていた。このため、大村市は法制定直後いち早くモーターボート競走を施行することを決定、昭和26年11月開催を目標に着々と準備を進めていった。
 しかし、中央の関係者の多くは、モーターポート競走には何の実績もない日本の西の果ての小都市で初開催を行うということに一様に難色を示していた。
11月初開催を目標に準備を進めていた大村市では、昭和26年9月頃には、すでにスタンド建設のメドもたちボート、モーターの購入も決定し開催の準備は着々と整っていた。
 しかしながら、連合会が設立されていないために規程や規準等が整備されず、ポート、モーター、選手、競走場等各種の登録も行われないため、いつになったら開催できるのかわからないという状況下にあった。
 しかも、関係者の多くが大村での初開催に疑問を持っているとなると、大村で初開催を行うためには有無を言わせない実績をつくり、強引に初開催をもぎとるよりほかに方法はなかったのである。
 そこで、「競走場はできる。ボート、モーターも揃っている。これに選手がいればともかくレースは実施できる。それならば自分の手で選手を養成すればよいではないか。」の発想のもとに、昭和26年9月長崎県モーターボート選手養成会が結成されることになる。
 こうして、同年10月3日から大村養成は開始されるのであるが、大村市には養成会による選手養成が開始される前に同名の同好会があり、養成訓練と同様の訓練を行っていた。
 この同好会は松永氏(のちに審判員、松永時計考案者)山下氏(後に選手)を中心とするモーターボート競走の選手を目指す若者たちの集まりで、昭和26年の8月頃からモーターボートに乗ったり、モーターボート競走に関する勉強をしたりしていた総勢20数名の同好会であったが、施行者、競走会による長崎県モーターボート選手養成会の結成とともにこれを発展的に解消、同養成会に吸収されることになる。
 11月初開催を目標としていた大村関係者は、昭和26年9月に訓練生を募集し、10月から訓練を開始するが、この養成訓練もアマチュア歴のある教官がいたわけではな
く、元船舶兵である山下氏が操縦教官、少年の頃からモーターボート競走にあこがれを持ち、エンジンに関する知識の深い松永氏が機構の教官、施行者の事業課長である猪川氏が法規の教官といった陣容で、それぞれ専門の知識はあってもモーターボート競走という点では全く素人の集団であった。
 養成訓練とは言っても合宿していたわけではなく、自宅から通って来るものがほとんどであった。乗艇訓練には東京の墨田川造船から杉浦氏(後に選手)を派遣してもらったりしながら養成訓練の課程は進行して行ったが、肝心な初開催はいっこうに決定せず、これを不満とする市民の間には市執行部に対する批判も出はじめていた。
 大村市は窮余の策として昭和26年11月24日に西日本アマチュアモーターボート選手権と銘打って模擬レースを実施し、お茶を濁すありさまであった。
 11月開催を予定し、経済的にも無理をして養成に入った訓練生の中には資金が続かなくなり落伍する者もあったが、多くの訓練生は漁師やアルバイトで資金をかせぎお金ができると、ガソリン代を持ち寄り乗艇訓練を続けていた。先きの見えない長く、辛く、厳しい訓練であった。
 昭和27年の正月には、訓練生の資金も底をつき、正月の餅もつけないというので、近くの山から松を切ってきて、元旦の朝まで門松造りをやっていくらかの収入を得てやっと正月を迎えた話が伝わっているのもこの養成訓練中のことである。
 こうして大村の関係者の熱意はついにテストケースという名目こそついたが「初開催」をかち取ったのである。その意味では長崎県モーターボート選手養成会が行った1期生の養成は大村関係者のもくろみ通りであったといえよう。
 同養成会は、その後若松、芦屋の初開催にあたり選手養成の依頼を受けて訓練を実施したのをはじめ、小人数の養成を6回にわたり実施している。
 大村養成をモーターボート競走全体という視点から評価すると、@地元選手の養成は開催気運の醸成に極めて有効であることが確認された、A後続の開催予定地に地元選手の必要性を認識させた、B競走会による選手養成のモデルケースとなった、C琵琶湖養成所だけでは不足がちな選手養成を補い選手の需要に応えた、ことなどがあげられる。
 また、関接的な効果としては、琵琶湖養成に対抗する勢力として両者の競争意識を生み、相互の操縦技量を向上させたことも見逃せない効果の一つといえよう。

2.連合会の選手養成
 連合会の選手養成は、昭和32年以来、昭和57年3月までに50期、1640名を業界に送り出し、現在も継続中である。
 昭和41年、本栖研修所が建設されて以来、「生活は楽しく訓練は厳しく」をモットーに完備した設備、豊富な器材、充実した教官陣で実施されている養成訓練であるが、規在に至る道程は長く厳しいものであった。
 連合会が選手養成を開始した昭和32年当時の業界の状況は、売上は徐々に上昇し、施行者、競走会とも経営的には開催当初のピンチを切り抜けてはいたが、公営競技をめぐる世輪は極めて厳しく、モーターボート競走の存続さえも明確な見とおしがたたない状況であった。
 モーターポート競走の苦難時代は昭和29年から始まったと言えよう。昭和29年臨時特例法により交付金に時限が附され、翌30年には、いわゆる河野声明により自粛を余儀なくされたばかりでなく、業界内部に不祥事件が発生したり、選手の技量不足や運営の不手際を理由とする騒擾事件が多発したり、モーターボート競走業界自ら苦境を招くような事件が続発していたのである。
 世論はギャンブル批判に満ち、新聞はことあるごとに公営競技による家庭の破壊や使い込み事件を大きく取り上げギャンブル批判のキャンペーンをはっていた。モーターボート競走を取り巻く状況がいかに厳しかったかは、昭和32年に招集された第26回国会において「モーターボート競走を廃止する法律案」が審議されていることからも推察される。
 昭和32年の競走法の改正は、臨時特例法の失効に伴い、「19条交付金」を新設したほか、施行者、競走会、連合会に対する監督強化等を柱としてモーターボート競走の健全化を促進する方向で実施された大改正であった。
 この改正により、連合会の業務として振興事業関係とともに「審判員及び選手の養成及び訓練」が加えられ、このことにより連合会が養成訓練を行うことが法的裏付けをもったのである。
 モーターボート競走開設当初の選手養成は、急激な競走場の拡大、選手需要の増大に応えて、競走運営に支障をきたさないように選手を供給することが第1の命題であった。
 琵琶湖養成所せはじめとする各地競走会等の養成により、この大事業をやり遂げたことがモーターボート競走の今日の発展を築いた重要な要因の一つであることはもちろんであるが、早急に選手を養成する大目標の前には、多少の問題はあっても希望者を募り、ともかく一応ボートに乗れるように養成して業界に送り込むという方法で最低限必要な選手を確保せぎるを得なかったのである。
 昭和28年秋頃になると登録選手数は800名を超え、養成中の者を合わせると1000名に達する見込みがつき、必要数を確保できたので、その後は公認養成所で質の高い選手を養成し、退職者等の補充をして行くことにした。このため、養成の期間も3ヵ月、4ヵ月と延長されて行くことになる。
 このように、一応必要選手数を碓保できたモーターボート競走業界ではあったが、世論は業界に厳しかった。
 このため、連合会はちょっとした不祥事を起こした選手や不注意による誤りをおかした選手を次々と処分して行かなければならなかった。加えて昭和29年には平和島、多摩川、戸田、下関、宮島、30年には江戸川、蒲郡、31年は桐生と新設競走場のオープンが続いていたため、一応必要数を確保した選手数は再び不足ぎみとなり、選手は転戦続きで時には1ヵ月も2ヵ月も家に帰らない選手さえあったという。
 根拠法である競走法には時限が付されており、将来存続して行けるかどうかきえも明確には見通せない状況の中で、業界内部でささいな事件が起こっても、世論はすぐに襲いかかり廃止へもって行こうとする。このような社会情勢のもとでは内部体制の引き縮めをはかり、守りの体制を固めることが存続を勝ち取る唯一の方法であった。
 連合会は再訓練の強化、精鋭化要一領の実施など次々と引き締め策を持ち出し、不適格者はどしどし登録消除あるいは出場停止処分にして行った。
 選手は不足していたが、このような社会情勢のもとで安易に選手養成を再開するわけには行かなかった。養成を再関するためには、募集から教育制度に至る
ま、で根本的な改革を行う必要があった。
 しかしながら、連合会をはじめ全業界関係者は、厳しい世論に付け入る隙を与えないような万全の運営を行う体制を取ることと既成選手の再教育を行うことに明け暮れており、養成までは手がまわらない状況であった。このため、昭和30年5月卒業の琵琶湖29期生を最後に昭和32年2月に連合会が養成を開始するまでの間、選手養成は中断されたのである。
 連合会を中心に、業界の総力を結集した建て直し策は見事に成功した。徹底的に内部のウミを出すことによって、「雨降って地固まる。」のたとえの通り、モーターボート競走業界は筋金入りの体制に生まれ変ったのである。
 連合会は、この間既成選手の再教育を行いながら連合会自らが選手養成を行うべく着々と準備を整えていった。新人選手や女子選手の臨時訓練には新たな課目を取り入れ、教育成果を確かめると同時に教授方法をも研究し、直接教育に当る教官を養成していったのである。
 選手養成を中断し、再教育に重点を置いた施策が実施された結果、選手の技量は向上した。新人選手の技量はたしかに既成選手には劣るが、新しい者特有の意欲は技量を超えた魅力のあるものである。
 モーターボート競走業界全員が清新の息吹きを吹きこむ必要があることを自覚していた。養成を行うための機は熟したのである。昭和31年11月26〜27日、連合会常任役員会は連合会が選手養成を行うことを決定し、270万円という多額な補正予算も承認した。
 全ての競走会の全面協力を得て募集が開始され、全国的に優秀素質者を求めた。従来の選手養成所では実施できなかった業界を挙げての協力体制がとられたのである。
 こうして募集された応募者1,560名の中から46名の合格者が決定され、連合会の選手養成はスタートを切った。

(1)2ヵ月養成 − 超軍隊式規律、人命あっての人権 −

 連合会1期生には全国から1,560名の応募者が押しかけた。このうち46名が入所試験に合格し入所したが、訓練を修了した者は36名。あとの10名は厳しい訓練に音を上げたか、あるいは教官から選手としての適性にかけるとして退所を命じられたかであった。
 このことからも分かるように連合会は選手養成に当っては、熾烈を極めるプロの世界に入り、立派にやって行くためには技術水準が高いことはもちろん、なにものにも負けない強い精神力と、常に正々堂々と戦うフェアープレーの精神を持つことの必要性を第一とした。しかし、訓練の期間は2ヵ月間と限定されており、教育すべき事柄は山積していた。
 連合会は、最も効果的な訓練を実施するためには演習規律を厳正に保つ以外はないと考えていた。
 全くの素人に2ヵ月間でプロの技量を身につけさすには時には危険のともなう訓練も行わなくてはならない。人権を尊重するあまり人命を失うようなことがあってはなんのための人権であるかわからないことになってしまう。
 人命の前には人権を無視することもやむを得ないとして“超軍隊式規律”“人命あっての人権”の2大方針が決定された。
 また、2ヵ月養成の具体的な教育目標としては“操縦時間20時間と基礎教育の徹底”がかかげられた。
 こうして訓練生に厳しさを求める一方で、教官には、“率先垂範”“自分のできないことは訓練生にも要求しない”の方針が徹底された。
 連合会が養成を開始するに当って定めた“人命あっての人権”の基本方針は、今日では“生活は楽しく、訓練は厳しく”とその表現を変えているが内容はいささかも変わるものではない。

豊富な器材と操縦時間の飛躍的な増加

 琵琶湖養成の選手に養成訓練期間中の操縦時間をたずねると、4ヵ月養成の出身者でさえも4、5時間とか7、8時間と答える。
 それを連合会では2ヵ月間に20時間乗艇させようというのであるから、当然大量の器材が投入されなければならないことになる。1期生の訓練には航走用モーター16基(ヤマト8基、キヌタ8基)、ボートはハイドロ、ランナー、軽ランナーと、現在の養成訓練と比べればまことに貧弱であるが、当時としては飛躍的に大量の器材が投入され、整備にはセクションモーターなども使われた。
 その結果、訓練期間中の操縦時間は目標どおり20時間を超え、整備はすべて実物で教育、学科の能力も高く、この当時の新人選手としては抜群の実力をもった新人選手が誕生したのであった。
 しかしながらこの養成の前には、約2年間にわたる選手養成の中断があったため、既成選手は最低でも2年の実戦経験を持っており、既成選手との実力差の璧は厚く、デビューと同時に好成績をあげるまでにはいかなかった。
 2ヵ月養成は昭和34年6月までの2年余の期間にわたり、7期237名の養成を行ったが、結局2ヵ月の訓練期間では基礎教育を行うことがせいいっぱいで、レース結果に直接結びつくような応用動作を教育することは不可能であることを改めて思い知らされたのであった。

初期養成の教官と新たな教官の養成

 2ヵ月養成当時の教官陣は、養成開始まで既成選手の再訓練等を担当してきたベテラン職員と各地競走会の実務者とで構成された。軍隊時代に教官歴を有する職員も多く、またモーターボート選手の教育という面でも琵琶湖養成所で座学を講じたり、新人選手や女子選手の訓練等で数々の試みを行ってきた彼らではあったが、全くの素人を選手とするところまで教育することに関しては始めての経験であった。
 まして、“率先垂範、自分のできない事は養成員にも要求しない”の教育方針をとっている以上、自らの技量を磨き模範を示して教育を行わなければならない立場にあった。
 この当時の教官の忙しさといったら朝5時半から夜11時の就寝までまさに寸秒を争うといったありさまであった。
訓練生よりは30分前に起床して、夜の11時すぎ巡回を終って就寝するまで休憩時間などまるでない毎日であった。
 午前中の課業が終ると教官は2、3分で昼食を済ませ、昼休みを利用して行われる「教官教育」に参加しなければならなかったからである。
 こうして編隊、蛇行、旋回など操縦関係の教官教育は訓練生の休み時や課業終了後に行われたのであった。そして夜は深夜まて教材の整備、試験の採点、明日の課業準備を行った。この当時訓練を受けた選手は一様に「教官はこわかったけれど、何時寝ているかと思う程よく働いていましたね。われわれは、“鬼の○○、蛇の△△”などと言って恐れていましたが、あの人達も苦しかったのでしょうね。」と訓練時代を語る。
 昭和32年は振興事業をはじめ連合会業務が拡大した時代でもあったが連合会は無理をして次々と新人職員を選手養成訓練に入所させた。訓練を修了した職員は配属された課の担当業務を遂行しながら補助教官として養成訓練を手伝い、自分の専門を活かしてある者は法規、ある者は機構、ある者は操縦と得意分野を受持つ、いわゆる「課目主任制」をとれるまでに実力を向上させていったのである。

(2)3ヵ月養成 − フライング返還に備えて −

 選手養成は連合会の総力を結集して行われていたが、いかに綿密なる計画のもと、最善の方法による訓練を実施しても、2ヵ月間という限られた時間内で既成選手の技量に追いつくことは不可能であった。
 連合会も2ヵ月の訓練で技量的に既成選手に追いつけると考えていたわけではなく、基礎をかためておけば5ヵ月ないしは6ヵ月で技量の差は短縮できるであろう考えていたのである。
 しかし、一方では遅くとも昭和36年度からはフライング返還を実施したいという業界の動きがあり、そのためにはスタート事故を大幅に減少させなくてはならなかった。
 このため、スタート事故対策として昭和35年11月からスタート事故者には臨時訓練を実施することが決定されていた。
 選手養成訓練も基礎教育の一層の充実を期して昭和35年6月入所の7期生からは訓練期間を3ヵ月に延長することとなった。一人当りの乗艇時間も2ヵ月当時の20時間から30時間に延長され、その多くがスタート練習にあてられた。
 かくて養成訓練修了時の操縦技量は確実に向上していったが、それでも既成選手との技量差にはまだ大きなへだたりがあった。

@若手教官の登用と教官教育

 養成訓練の責任者である主任教官には依然としてベテラン職員があたっていたが、若手教官も確実に力をつけていった。3ヵ月養成も終りに近い昭和39年1月入所の16期生には、初めて若手教官が主任教官として登用された。
 若手教官といえどもベテラン主任教官のもとて鍛えられた職員であるから、教育に遺漏のあるはずは無かったが一層の万全を期するためとして、役員および、幹部職員による検閲制度も同時に導入された。1ヵ月、2ヵ月といった区切りには検閲が行われ、操縦、整備、各種学科をはじめ教練、体育、訓練中の起居動作までこと細かに訓練成果がチェックされ、その後の訓練の指針が打ち出されるというこの制度は、訓練の成果をあげる上からも教官の実力を向上させる上からも効果的な制度であったと言えよう。
 若手教官主体の教育を行ったが教官陣自体にも問題はあった。この当時、モーターボート競走は年々売上を伸ばしてはいたがまだまだ売上は小さく、競走法にも時限が付されていたため連合会は財政的にも十分でなく、法的基盤も弱かった。そのため新入職員の採用は最小限度に手控えられていた。
 昭和37年の法改正により競走法に付されていた時限がはずされ法的基盤が確立されたこともあって職員の定期採用が行われるようになったが、長期間にわたり職員の採用を手控えていた影響で中堅職員と新人職員のギャップは大きく教官陣充実のカギは新人職員の育成いかんにかかっていたのである。
 そこで、休憩時間を利用しての教官教育のほか新たに、年2、3回、1週間程度の合宿による教官教育が採り入れられた。
 新人職員を仮の教官として、幹部織員、中堅職員が訓練生となり訓練中の起居動作各種実技および操縦学を中心とする学科の指導方法を体験的に指導しようというものである。新人職員にとっては厳しい訓練であった。
 畳は、ベテラン職員を前に操縦訓練の説明を行い、訓練が始まれば4時間も5時間も連続して乗艇し、夜は夜で学料の講議をし、躾教育を行う。しかも相手はなにもかも知りつくしたベテラン職員ばかり、まさに針のむしろに座らされるような合宿訓練ではあったが、それだけに身に付けるものも多い訓練でもあった。
 新人職員はこうして短期間のうちに急速に鍛えられていった。

(3)5ヵ月養成 −本栖研修所の完成 −

 連合会は、選手として登録する以上、新人選手といえども既成選手に互して十分に戦い得る実力を持つべきであると考え続けていたが、選手総数や養成訓練の経費の問題で理想的な養成訓練を実施できないままに初開催以来15年が
経過していた。
 この間にモーターボート競走は発展を続け、昭和39年度の売上は730億円に達し、同時にファンの競走を見る目も厳しいものになっていた。
 昭和39年度第9回常任役員会は、選手養成訓練の2ヵ月延長を決議し、昭和40年4月から実施する第20期選手養成訓練から実施することとした。
 5ヵ月養成の特徴は操縦時間の大幅な増加としつけ教育の強化である。具体的な目標として“乗艇時間100時間、スタート練習2000回”が掲げられ、人間像としては、常に必勝の気構えを持ち、秩序を重んじ、礼儀正しい人間”の養成を目指し
た。
 さらに大量の器材が投入され中堅職員を総責任者、新人職員を主任教官とする教育体制がとられ、訓練の意気はいよいよ上がった。
 投入される器材の質もあがり、ボート・モーターも程度の良いものが使用されるようになって訓練効率は高まり、乗艇時間は飛躍的に増加し、養成員の技量は日増しに上昇を続けた。
 この当時の月間指標として、「何事も人に負けるな」があるが、この月間指標通り教官も養成員も一体となって燃えあがり競争していた。同時に入所した養成員を2つに分け、同じ程度の経歴の教官が各々主任教官として任命される。
若い教官は燃える心で訓練に臨む、若い養成員の心が燃えないはずない。「1小隊に負けるな」「2小隊なにするものぞ」の心と心がぶつかり合い、さらに激しい炎となって火花を散らす。
 こうして出来あがった選手には目を見張るものがあった。連合会が長年夢に描いた、“デビューと同時に既成選手と競い合う”姿があちこちの競走場で見られた。完全ではないまでも既成選手の技量に追いつくことができたのである。
養成訓練を充実すれば既成選手の技量を凌駕することも夢ではなく、手をのばせばすぐにでも届くかに見えた。
 5ヵ月養成の修了生が既成選手に与えた衝撃は実に大きなものであった。これまで新人とは“負ける者”であった。
たまに勝ったとしてもそれはまぐれであり、決して実力ではなかったのであるが、5ヵ月養成の選手は“負ける者”ではなく、少なくとも“勝負の相手”であった。
 5ヵ月養成の選手は、文字通り業界に新風を吹き込んだのである。
 既成選手は一様に「新人なにするものぞ」の気概に燃え、競走は熾烈化し、選手の技量は向上していった。このため5ヵ月養成も期を重ねるごとにう競走に勝つことは難かしくなっていったのである。

@本栖研修所の建設 −生活は楽しく、訓練は厳しく −

 昭和41年11月選手、審判員、検査員、養成訓練をはじめ各種の定期訓練、臨時訓練等を行う常設訓練所として、本栖研修所が完成した。
 富士五湖の一つ、本栖湖畔の16,000坪の敷地に総工費5億4,000万円を投じて建設された本栖研修所はホテルと見まごうばかりの超近代的な建物であった。
 昭和27年長崎県大村市で1日売上280万円でスタートし、開催するごとに赤字を積み重ねたモーターボート競走も14年余を経た昭和41年度には年間1,400億円の売上を誇る巨大産業に成長していた。
 モーターボート競走が開始された当時はどこにでも見られた戦争の庇跡は跡形もなくぬぐいさられ、人々は文化生活を謳歌する時代となっていた。
 これまで述べてきた通り、選手養成訓練は草創期を除いてすべて競走場を利用して行われてきたが、騒音公害が問題となるにつれ関東、東海、近畿の競走場は開催日を除いては使用することが難かしくなり、この当時は九州、中国、四国地区の競走場を移動しながら訓練を続けていた。
 非開催の競走場を求めて、訓練器材の全てをトラックに積みこんで1週間毎に移動を繰り返す訓練は、訓練効率の面からも、経費の面からも不具合が多いため、昭和39年に連合会常任役員会は常設訓練所の建設を決定し、総会により全競走会の同意を得て賦課金の大幅アップにより研修所の建設資金を捻出したのであ
る。
 売上が好調に推移している時代ではあったとは言え、競走会にとっては苦しいことであったが、選手、審判員、検査員をはじめ“業界を構成する人間こそが財産”であり、次の時代を支えるという信念が本栖研修所を建設させたのであった。
 研修所の完成を機として養成訓練は新しい時代を迎えることになる。

(4)1年制養成

 5ヵ月養成の初期には、既成選手と勝負を争えるだけの実力をもった新人のデビューはセンセーショナルな話題であり、業界に新風をまきおこしたが、時を経るに従いまたもや既成選手の技量向上が目立ち、デビュー直後の新人が華々しく活躍することは難かしくなっていった。
 プロスポーツがプロスポーツたる所以は、選手がアマチュアには出来ないレベルの高い技術を持っていることである。公営競技も全く同様で、ファンに良いレースを提供することが発展への唯一の方法である。
 その意味では、5ヵ月養成は大いに評価されるべき成果をおさめたと言える。
 5ヵ月養成は、昭和40年の20期から昭和45年の30期までの5年、11期の間実施されたが、この間にモーターボート競走は発展を続け、昭和45年度の年間売上4,300億円、入場者は3,000万人にも達していた。
 ファンの競走を見る目も厳しく、新人選手だからと言って技量未熟なレース展開は許されなくなっていた。
 連合会は養成訓練の抜本的な改革を図り、「心・技・体」と3拍子揃った新人選手を送り込んで業界に新風をおくり選手のレベルアップをはかって、ファンに一層充実した競走を提供することを目標とし、養成訓練の期間を一気に1年間に延長することを決定した。
 優秀素質者を多数集める方策として、これまで一部自己負担していた訓練費は全額連合会負担、日用品の無料支給日曜日の外出、礼式用制服の制定、夏・冬の休暇には帰省を許すなど内務規則を大幅に改正した。
「乗艇時間200時間、スタート練習3,000回、模疑レース200レース」を目標に訓練は開始された。本栖湖の春は遅い。
4月に入ってようやく春の息吹きが感じられるようになり、5月になると山の木々は一斉に花が開き、そして若葉が芽を出す。若葉とともに乗艇訓練を始め、夏の間に旋回、蛇行、編隊、交叉旋回と基礎訓練を積み、山々が紅葉に色付く頃からスタート、模疑レースと応用の訓練に入る。そして長い冬がやって来る。1年間は長くもあり、短かくもある。過ぎ去ってみれば楽しい思い出であるが、本栖湖の冬は寒
い。水しぶきがそのまま凍りボートのデッキ、乗艇服はもちろん、まつ毛や眉毛まで凍る。
 デッキの氷を割りながらも操縦訓練は続けられ、1年が過ぎる。
 そして、関係者の注目をあびてのデビュー戦、1年間の訓練は無駄ではなかっ
た。抜群のスタート、既成選手を凌駕する程の旋回技量、期待通りの成果であった。
 デビューした期からA級に昇進する者を含めて、大半の者がB級へ昇進した。モーターボート選手は「10年走って1人前」と言われるようにキャリアがものを言う世界である。その世界で、これまでの常識をくつがえし、次々と好成績をあげる選手たちは、まさに“新風”そのものであった。
1年養成の新人達の目覚ましい活躍が何年か続いたのち1年養成の選手達も5ヵ月養成と同じ傾向をたどることになる。選手全般のレベルが上がり、実戦経験のない新人選手は再び勝てなくなりつつある。
 養成訓練は基礎教育に留めるべきか、それとも業界に新風を吹き込むべくなんらかの対策を抗じるべきなのか、幾度か繰り返した業界の歴史はなにを教えているのだろうか、模索を繰り返しながら本栖研修所には今日もモーターの爆音と若者達の元気な声がこだましている。


3.実務者の養成
 モーターボート競走が公営競技中最後に誕生したことは既に発行済みの各篇でも繰り返し述べてきた通りである。
 戦後、関連産業の振興と地方財政への寄与を目的として競馬の復活、競輪、オートレースの新設が行われ、モーターボート競走法が制定公布された昭和26年当時には各々盛況裡に発展の一途をたどっていた。
 しかし、これらの先発公営競技に問題がなかったわけではなく、施設面、選手の資質面等に多くの問題を抱えていたが、特に大きな問題は頻発する騒擾事件であった。
 騒擾事件が発生する理由の多くは、本命選手が着外になったとか、失格に取ったとか、取らなかったとか、たわいのない事であるが一旦騒擾事件が発生すると興奮した観客は施設への放火、投石、窓ガラスの破壊等の暴挙におよぶ
ため社会問題として取りあげられるような状況にあった。
 この当時の観客は長い間の戦争で娯楽から遠ざかっており、毎日の生活もけっして豊かではなく、精神的にも安定した状態では無かった。一方、運営者側も誕生したばかりの新らしい競技であるため運営に馴れておらず、選手も急造された者が多くプロとして十分な技量を有していない者がほとんどであった。
 このように悪条件が重なっているのであるから騒擾事件が頻発するのも無理からぬことであったが、後発競技であるモーターボート競走が騒擾事件を引き起すことはなんとしても避けなければならなかった。
 競走法も場内の秩序維持や騒擾事故防止には数々の配慮をはらっているが、その1つに審判員の登録制度がある。
 審判業務は運営の要点を占めるばかりでなく、その判定や運営のミスが観客の利害に直結し、騒擾事件を引き起す可能性があるところから、登録の要件として、旧制中学卒業程度の学力を有すること、25才以上であること、モーターボート競走に関する経験を3年以上有することなどを掲げている。
 つまり、審判員は単に審判業務を担当する専門家としてだけでなく、社会人として尊敬される人格と識見とをも備えた人物であることが期待されていたのである。
 しかしながら、実際問題としては、世界で初めてのプロモーターボート競走であ
り、アマチュアとしてモーターボート競走の経験を有する人もいなかったために経験年数は無視せざるを得なかったのである。
 法の建前から言えば、3年以上もモーターボート競走に関する経験を有する者に試験を行い登録するのであるから、登録の時には十分にモーターボート競走を理解しているはずであるのが、実際にはモーターボート競走を見たこともない者を審判員にしなければならない。審判員がいなければ競技は実施できないのであるから、なんらかの形で養成を行わなければならなかったということになる。
 検査員については、当初登録制が取られていなかったため、エンジンに知識のある人が就任したようであるが、実際にレースが開始されてみると、競技部の運営の中心となる検査員、整備員の重要性が改めて認識きれることになる。
 特に開催当初の頃は、現在と異なりモーターの数も少ないため1基のモーターを2人の選手が使用したり、幾種類ものモーターを使用しているため1人の選手が何種類ものモーターを持つなど複雑であったし、なによりも選手の技量が稚拙なためなかなか始動できない。これを指導して行くことも大きな仕事であった。
 そこで昭和28年からは審判員の登録制度に準ずる形で、検査員、整備員の公認制度をしきレベルのチェックを行って来た。
 整備員については、その多くが地方公務員であることから、公認制度をとると公務員でありながら、他の団体の規則で身分が拘束されるといった、地方公務員法との間に問題があり、昭和32年からは公認制度を中断せざるを得なかったが、検査員の公認制度は昭和37年の法改正で登録制度がしかれるまで継続した。
 検査員については、当初からエンジンに関する知識を有する人々が多かったため、審判員のような養成は行われずにスタートすることができたのである。
 審判員についても、当初の養成を除いては特別に養成を行わず、法本来の趣旨通り、実務の中で十分な経験を積み、登録資格検定試験を受験するシステムを採って来たが、モーターボート競走の発展に伴い審判員、検査員ともに高度な専門知識が必要とされるようになり、独学ではなかなか合格できなくなったため審判員は昭和34年から、検査員は昭和35年から連合会が養成訓練を行うことになった。

(1)草創期の実務者養成

@大村競走場の審判員、検査員 − 初開催で運営を学ぶ −

 大村競走場の初開催が昭和27年4月6日と決定したのは、同年2月であったが、この時点では選手、審判員とも誰れ1人として登録されている者はいなかった。
 それも当然で、この時点では1回も登録試験が行われていなかったのである。しかし、その準備は大きく異なっており、選手は琶琵湖、大村で養成が行われ、登録試験を受験さえすれば良いようになっていたが審判員についてはなんの準備もされていなかったのである。
 審判員については、大村初開催が決定した直後の2月29日付で、当時連合会の業務部長であった原田網嘉氏が登録しているが、これは登録資格検定試験を実施したわけではなく、同氏のアマチュア時代の実績とその後連合会が審判員の登録試験を行うのに登録のない者が試験を実施するのではなにかと不老打合であることから登録したものだと言われている。
 第2回選手登録資格検定試験(第1回は琵琶湖、第2回は大村)と同日程の3月28日、大村競走場で第1回の審判員登録資格検定試験が実施され、4名が受験したが全員が乗艇や実技試験を受けられる状態ではなかったために合否の決定をせず保留の処置を取った。
 4月6日の初日は近づくが登録審判員1名ではレースが実施できないため、原田競技部長のもとで競技規則の作成、大村初開催の準備を進めてきた菊地、青木の両部員を4月1日付で登録し、初開催向けの体制を整えたのである。
 モーターボート競走の審判員で試験を受けないで審判員として登録したのは、後にも先にもこの3名のみである。
 初開催は、この3名が審判長、第1、2副審をつとめ、これに長崎県競走会の役職員が補助に付くという形で行ったが、連合会は各地の初開催に向けての業務が多く、大村の開催ばかりに重点を置くわけにも行かないため、5月8日初日の第2節に先立ち審判員の登録試験を行って峰(現福岡県競走会副会長)、松永(松永時計考案者)、および初開催には選手として出場した山田、藤村の4氏を5月7日付で登録し、審判運営の主体を長崎県競走会に移し、連合会職員はこれを指導するという形をとった。
 つまり、この4氏は初開催の1節、3日間、連合会チームが運営するのを見ただけで具体的な審判運営を修得したというわけである。
 競技部の運営については、連合会職員を配置していないが、実質的には第2副審を担当した青木氏が兼務で指導したということである。
 検査員については、連合会は特に指導しなかったようであるが、戦前から自動車関係の事業を営んでおり、エンジンを熟知している馬場氏(現長崎県競走会会長、当時常務理事)及び大坪氏が配置されており、その後、各地競走場においても自動車、飛行機、オートバイといったエンジンに詳しい人々が配置されていた。

大村競走場審判台(初開催当時)


A講習会による審判員養成

 大村初開催の成功は、これまで半信半疑であった各地の開催気運を急激に盛りあげることとなり開設準備に拍車をかけた。
 選手については、前述したとおり、琵琶湖、大村をはじめ各地競走会による養成で必要数を確保する見込みがついていたが、運営の要点である審判員、検査員の養成は行われておらず、そうかと言って大村初開催の場合のように連合会職員が1節あるいは2節の運営を担当しながら審判員、検査員を養成するには連合会の職員数は少なく、その業務はあまりにも多すぎた。
 そこで考え出されたのが講習会による大量の審判員養成である。
 講習会は、6月の近江神宮、8月の津、12月の芦屋と合計3回実施され最低限度必要数は確保された。
 講習会の内容としては、第1回審判員講習会である近江神宮での講習会に代表される通り(草創期篇「昔の審判講習会を語る」参照)短期間に審判員として必要な事項を網羅的に取り入れ、審判員として最低限度の知識を付与し、あとは近隣の競走場で見学を行ったり、自ら審判員としての経験を積む中で実力を養成するという程度のものであったと言えよう。


B公認検査員制度

 この当時、連合会は検査員の養成を行っていないのであるが、検査業務の重要性については十分に認識していた。
 昭和27年6月、津競走場における講習会も審判員、検査員、放送員の講習会ということで計画されたのであったが、検査員だけが中止されてしまったのである。
 この背景としては、法が検査員を登録制としていなかったことや、検査業務は全く経験者のいなかった審判業務と異なり自動車や機械関係でエンジンの取り扱いには経験のある人が多かった点にあるものと思われる。
 しかしながら、実際に競技運営を行って見ると一般的なエンジンについて知識があるということでは不十分で、モーターボートのエンジンに関する専門知識やモーターボート競走に関する十分な知識と経験が必要不可欠であることが明らかとなってきた。
 このため、昭和28年から登録制度に準じる形で公認制度が採られ、認定試験及びその後の講習会を通じて知識、技能の向上を図っていくこととなる。

検査員認定試験(芦屋)検査員認定試験(芦屋)


C連合会初の養成

 昭和28年に入るとモーターボート競走関係者待望の関東進出が具体的に検討され始め、関東地区の選手、審判員養成所の設置準備も行われたが、高野山事件、臨時特例法などの影響を受けてか養成所は設立されなかった。
 しかしながら、関東地区の開催準備は着々と進み、昭和29年6月には平和島、多摩川、10月には戸田競走場が開設することとなった。
 このため、東京都競走会では審判員、検査員、整備員を養成することとし、教育を連合会に依頼した。訓練期間は昭和29年3月から5月までの2ヵ月間、訓練場所は昭和28年8月から開催している浜名湖競走場という本格的な訓練であった。

東京都競走会の実務者養成(昭和29年浜名湖)


 連合会は東京都競走会と協力して基本的な教育計画を作成すると共に、既開催の競走場の審判員、検査員にも協力を求めて訓練を実施した。
 これまでの短期間の講習会とは異なり操縦、整備、学科等の基礎にも十分な時間をとり、審判、検査の実技は本番の見学も含め最高のレベルで教育が実施された。
 この結果、5月7日に実施された審判員登録試験、検査員、整備員公認資格検定試験では抜群の成績で26名中19名が3つの資格を、6名が2つの資格、1名が1つの資格を取得した。
 実務者養成はこれだけの実績を挙げながら諸般の事情により昭和34年まで中断されるのであるが、選手、審判員、検査員養成の基礎はこの訓練で確立されたと言えよう。


(2)連合会養成の開始

 連合会は開催当初から登録審判員6名、公認検査員2名による運営を理想とし、有資格者の配置を指導して来たが、各地競走会の経済的、人的な都合もあって有資格者の配置は遅々として進まず、一方では、他の類似競技と同様運営
の不手際による騒擾事件が多発していた。
 騒擾事件の頻発は社会問題化し、廃止論にまで発展しかねない勢であった。昭和32年の臨特例法の失効に伴う法改正では競走の健全化が強く打ち出され連合会の業務の1つとして選手、審判員の養成も加えられた。
 公正、安全な競技運営こそ健全化路線の最大の要点であり、そのためには有資格者の配置は最低条件であった。運輸省当局も昭和34年2月には「モーターボート競走における騒擾事故対策について」と題する通達の中で審判、検査業務に有資格者を配置すべきであるとその重要性を強調した。
 連合会は競技運営を詳細に検討し、審判員6名、検査員4名の有資格者の配置(6:4制)を理想としたが、有資格者の数が不足しているため、昭和34年は4:3制の達成を目標としなければならなかった。
 連合会は競走開始当初を除いて審判員、検査員、整備員の養成を行う考えを持っておらず、実務者は各地競走会が実務の中で養成し、資格試験を受験させるべきであると考えていたため実務者の養成は行っていなかった。
 このため、この当時資格を取得するには先輩の指導を受けながら自分で勉強するか、選手養成訓練に聴講生として入所し操縦、整備、学科等の基礎を勉強したのちに実務の中で専門分野の知識、技能を身につけ、資格試験を受験するという方法がとられていた。
 しかしながら、この方法では有資格者の急速な増加は望めないため、連合会は昭和34年から審判員、昭和35年から検査員の養成を行うことにしたのである。

@3ヵ月養成 ― 競走会の協力を得て ―

 審判員養成を開始した昭和34年当時、選手の養成期間は2ヵ月であったが、審判員、検査員の養成期間は3ヵ月でスタートした。前の2ヵ月間は、選手養成と合同の訓練で操縦、整備、学科等の基礎を身につけ、残りの1ヵ月間で
専門の知識、技能を集中的に訓練する方法である。
 実務者の養成訓練を開始するにあたって困ったのは実技教官をどうするかであった。
 連合会は、昭和32年から選手養成を実施していたから、養成訓練の実演は十分に持っており、理論的な教育にも自信を持っていたが、直接現場で運営にあたったのは大村初開催の時だけであり、その後の著しく進歩した審判、検査の実務を教育するには経験が不足していた。
 連合会は、各地の優秀な審判員、検査員に協力を求めるとともに職員を各地競走会に出向させて競技運営の実情把握と現場業務の習得にあたらせた。
 こうして実務者の養成は開始されたが、養成期間中に1つの資格しか取れないため、審判か検査かいずれかの職場に固定せざるを得ず、競走会の人事のうえで不都合が生じ易かった。このため、独学で勉強し他の資格を取得しようという人も多かったが、なかなか合格できないのが実情であった。
 そこで昭和36年からは審判員、検査員とその専門は異なっても基礎は同様であるから、同時に教育すればその無駄がはぶけるとして養成訓練中に両方の教育を行うこととし、これを機会に2ヵ月間は選手と合同の訓練という方式を改め、実務者は最初から別個の訓練を行うようになったのである。
訓練期間中に両資格をとるための教育をするという方法は昭和43年度まで続けられるが、選手養成訓練も昭和35年からは3ヵ月、昭和40年からは5ヵ月に延長さ
れ、選手の知識、技能も向上しており、実務者はこれを上回る専門知識、技能を習得する必要があるところから、昭和44年度からは養成中の教育は1資格にもどり内容の充実をはかることとなった。
 3ヵ月養成は昭和45年度まで続いたが、有資格者の増員がはかられ6:4制が達成されたのを機に昭和46年度から5カ月間に延長された。

A5ヵ月養成 ― 未来に対応できる実務者を ―

 昭和30年代の後半から開発された競技運営の機械化は、審判運営も競技部の運営も大きく変化させた。便利になり正確性を増した反面では取扱いや機構についての専門知識が必要となり学ぶべき事項も多くなった。
 また、選手の養成訓練は昭和45年から1年間に延長され操縦技量は飛躍的に向上し、それが起爆剤となって競走は熾烈の度合を深めていった。
 これ等の選手に判定を説明し、指導して行くには、実務者は、選手以上の専門知識と技量を持たなければならなかった。
 登録者の数は6:4制をしけるところまで到達しており、緊急に大量養成を要する時代から質的充実をはかる時代に入ちて来たこともあって昭和46年から訓練期間を5ヵ月に延長することになった。
 5ヵ月養成の重点は実技、理論両面での基礎教育を強化することにより、将来起り得る変事に対応できる実務者を養成することにあった。
 審判員養成では機械化により一層必要性が増した電気工学、検査員養成では内燃機関工学関係の理論、各種の実験等に重点を置いて教育を行ったが競走の変革のテンポは教育の充実のテンポを上回り、2年後の昭和48年には養成期間を1年間に延長することになる。

B1年制養成 ― 完成された実務者をめざして ―

 昭和48年度のモーターボート競走の売上は約9,000億円、対前年度比39%増と発展の一途をたどっていた。
 競走が発展し、競走場に多くの観衆が集まれば集まるほど運営の不手際はゆるされなくなる。選手も実務者も“新人だから”は理由にならず、出るからには完成された選手であり実務者でなければならない時代になっていた。
 実務者養成は1年に延長された。理論、基礎教育の強化はもちろんのこと所属競走会での長期間実習を含んだ画期的なカリキュラムが決定された。
 初期教育で理論と基礎を、中間は現地で実習を、最後はもう一度基礎を復習し仕上げをするという計画である。
 養成期間の延長と併せて編入制度も制定され、両資格の取得に便宜が与えられることになった。こうして、実務者養成は一応完成した形で今日をむかえたのである。


ま と め
 法制定から30年を経た昭和56年度のモーターボート競走の売上は1兆6,300億円と7年間連続で公営競技中第1位の売上を達成した。最後発の公営競技でありながら、このようにファンの信頼を得て大衆娯楽として定着できた要素はなんであったのであろうか。
 モーターボート競走の成長の過程において、日本経済の高度成長、所得の飛躍的な増大があり時期を得たことも大きな要因であることはもちろんであるが、“ファンあってのモーターボート競走”の思想のもとに公正なレース、厳正な運営を続けたことがファンの信頼を得られた最大の要素と言えるのではないだろうか。
 前述したとおり、モーターボート競走はその誕生の時からアマチュア層が薄かったために選手、審判員、検査員、整備員といった全ての要員を養成しなければ競走が実施できず、大変な時間と費用とをかけて養成を行ってきた。
 モーターボート競走の教育は養成訓練だけにとどまらず、登録者に対する定期訓練、登録者以外の要員には各種の講習会といった形で全てのものに優先して教育を実施してきたのである。
 人的にも、経済的にも安定していない草創期において、教育に時間と費用を費すことは大きな負担であったが、結果的には、全ての人間が業界の方針を良く理解するところとなり、その結果“一枚岩” と評される強固な団結を生み、発展の大きな要素となって来たのである。
 モーターボート競走を今日の姿にまで発展させてきたものは人であり、未来へ向ってモーターボート競走をささえ、発展させて行くのも人である。
 輝かしい未来へ向っての人づくりは永遠のテーマである。変革の時代を迎え、社会は目まぐるしく変り、モーターボート競走業界も変っている。教育制度は、より良いものを求めて模索を繰り返しながら完成の度合を深め、良き伝統と共に未来へと引き継がれて行くのである。

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